つまり手榴弾を使っての自殺です。それらすべてを合わせて、日本軍戦死者は一万九千九百人といわれていますが、島にはまだ一万二千体の遺骨が残っているといいます。だから、今でも霊がいっぱい出る。硫黄島に行ったら幽霊の話ばかりです。 Joint Chiefs of Staff 713/18, "Future Operations in the Pacific", 2 October 1944.

日本とは絶対に戦いたくないという彼らの気持ちが第9条へと繋がった可能性が高いのです。中国国民党や中国共産党もしかりなのです。 日本軍は歴史の中で、10倍相当の相手人数に対しても、怯むことなく勇敢で圧倒的な強さを示して来たのです。 +印は過去に離島振興法などに指定されていた島嶼あるいは法令上で無人指定離島として扱われる島嶼。 日本軍は圧倒的な強さでした。 中国大陸では連戦連勝。 東南アジアにおいても、イギリス、オランダをあっという間に蹴散らしています。(インパール作戦ではイギリスが勝ったという人もいるでしょうが、インパールは日本軍の作戦ミスによる自滅です。 旦那が東大卒なのを隠してました。 【D】菜種, 豊臣秀吉の子孫はいないですか?秀吉の親戚まで拡大した場合、秀吉の子孫と称しても問題ない人は今の時代にいますか?. 圧倒的な兵力と物量 船と飛行機の差で戦争が開始されました。 Co., AGF, APO 86, 連合軍最高司令部訓令(SCAPIN)第677号 独立行政法人 北方領土問題対策協会, asahi.com(朝日新聞社):菅首相、硫黄島を訪問 戦没者遺骨収集事業を視察 - 菅政権, 海上自衛隊硫黄島航空基地における携帯電話サービスのための携帯電話基地局の設置事前調査及び設置工事に関する業者の募集について, BFV:硫黄島復活!“CQCモード”やチャプター4の内容も [EA Play新情報まとめ], https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=硫黄島_(東京都)&oldid=80274868, 1889年(明治22年)6月、父島の住民田中栄次郎が、父島で建造した帆船南洋丸にて十余名とともに、鮫漁と硫黄採取を目的として入植し、硫黄島の開拓が開始された。記録に残る初めての日本人の入植。, 1943年(昭和18年)6月、島内調査を実施。硫黄島村の人口は192戸1,018人(男533人、女485人)。, 2015年(平成27年)3月21日、日米合同慰霊追悼式。「硫黄島協会」と「米国退役軍人」らの団体の共催。出席者日米計約550人。, 石原俊 『硫黄島――国策に翻弄された130年』中央公論新社〈中公新書2525〉、2019年。. 【A】甘藷 硫黄島協会. 日本軍守備隊長を務めたのは、中川州男(くにお)という陸軍大佐でした。 結果的に見れば日本軍は玉砕、中川も自刃したとはいえ、2か月以上に及ぶ戦闘に耐え抜き、敵軍を著しく消耗させたのは、この中川の卓越したリーダーシップによるものでした。

旦那は私の顔を上の中と言います。だったら上の上がいたら私は捨て... ゴートゥーイート 11月中に終了する可能性高いですか?キャンペーンに気付いてなくて最近予約し始めたので 別に学歴なんて気にしてませんでしたし、そこそこ大きい企業に勤めて給料にも不満がありませんでしたし、私も働いていますし「専門技術だけで大きい企業に勤めるなんて凄... 先日、息子が彼女にプロポーズして、相手両親に挨拶に行きました。彼女は一人娘で、彼女の父親から、氏名だけでも彼女の姓を名乗ってもらえないかと言われたと息子より相談の連絡がありました。まだしっかりと話はしていないので、息子の考えや彼女の考えもわかりませんが、いずれこのような相談があるだろうと私自身前... 結婚したことを後悔しています。私と結婚した理由を旦那に聞いてみました。そしたら旦那が「顔がタイプだった。スタイルもドンピシャだった。あと性格も好み。」との事です。 △印は架橋などにより本土・沖縄本島と陸続となったが、引続き離島振興法などに指定されている島嶼。 十兵衛さん、どんなに頑張っても損な役回りですよね。, 元亀元年の信長による朝倉攻めに、浅井長政は軍勢を率いて織田方で参戦していましたか? 陸軍5個大隊強 十二糎榴弾砲…10門 野山砲…24門 臼砲…12門 そこには締め切り前の予約は対象とありますが、仮に今月の残り全てに予約を入れた場合、それらも500ー1000ポイン... ママ友との会話で旦那が工場勤務とか土方は嫌だよね〜って話題になりました。そのママ友には言っていないのですが旦那が土方仕事をしています。 ©Copyright2020 日本の歴史を分かりやすく解説!

第30回【朝倉義景を討て】 2011年9月25日時点のオリジナルよりアーカイブ。 2016年12月4日 閲覧。 ^ 戸部良一 ほか『失敗の本質 日本軍の組織論的研究』中央公論社〈中公文庫〉、1991年、 [要ページ番号] …

駒ちゃんと義昭の、、、 太平洋戦争で米軍にとって最も過酷な戦闘となった硫黄島の戦いは、1945年2月19日から36日間にわたって続き、この島の拠点を壊滅させた。(W. 太平洋にあるサイパン島がアメリカ軍の手に落ち、アメリカ軍は日本本土への空爆を視野に入れはじめます。, 硫黄島を手に入れれば、「B-29」の燃料は半分で済み、その分大量の爆弾を搭載できます。, 「アメリカ軍は上陸の際、四方を艦艇で包囲して頭上を飛行機で覆い尽くすだろう。 硫黄島の日本軍の奮戦について語る場合、どうしても触れておかねばならない部隊に、戦車第26連隊がある。 二段岩(382高地)に姿を隱している日本軍の中戦車 セールで15日に買いたいです。何度しても無理です。 ads.yahoo.comからget-user-id.jsを開くかまたは保存しますか?このメッセージの意味が分かりません。 硫黄島の戦いが始まった5日後の1945年2月23日、摺鉢山の頂上に星条旗を掲げる6人の米海兵隊員。このうち3人は、戦いの勝利を見ずに亡くなった。硫黄島で戦った軍人27人に名誉勲章が授けられた。これは米国史上、1つの戦いにおけるものとしては最多である。 !」, アメリカ軍は当初の目的通り硫黄島を占領しましたが、あまりに被害が大きく、この戦いを「勝者なき戦い」と呼ぶようになりました。. 買えた方いてるのでしょうか?, https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12231843962. 軍の沿岸警備隊が常駐しているが,一般住民 は住んでいない。 今回の訪問は,私の祖父定吉が生前,大正 9(1920)年に設立された,硫黄島拓殖製糖 (株)(のちに硫黄島産業(株〉に社名変更し 現在に至る)に,砂糖問屋業界の有志として ――菊池寛賞ご受賞おめでとうございます。今回の受賞は、剣豪小説や歴史小説での長年の御功績と、『八月の砲声――ノモンハンと辻政信』(講談社刊)や『名をこそ惜しめ――硫黄島 魂の記録』で、戦記文学にも幅を広げられたことが評価されていますが、戦記物に取り組まれた動機をお聞かせください。, 終戦から六十年経っていますが、日本では戦記については、アメリカによる教育指導などもあって興味が持たれていない。歴史がそこでスーッと切れたようになっている。しかし、あと三十年、五十年経ったら、そこにブランクができるということは無視できないと思ったんです。, 日本は戦争で壊滅してから三十年で世界有数の産業国家になりました。それを成し遂げた日本人のポテンシャリティというか、生きるための意欲というのは、硫黄島で非常な悪条件の中でとにかく戦おうとした人の努力と、実は一体だと思うのです。日本人は島国で暮らしていて互いの連帯は強く、変な方向に走り出したら全員が行くとか、今だったらいろいろ言えますが、当時、日本はかなりいろいろな方面で追い詰められていた。非常にゆがんだ世情の中で皆がそれぞれの状況下で努力をした。その努力の仕方が、日本人の特徴だと思うわけです。, ペリリュー島(現パラオ共和国)の玉砕(一万人。昭和十九年十一月)を、最初は書くつもりでした。, 新陰流の先代のお弟子さんに、ペリリュー島の斬込み隊の指導教官をしていて、島がアメリカ軍に襲われる前にフィリピンに渡り、その後、東京の陸軍大学の教官になった方がおられたんです。ペリリュー島に行く前にはニューギニアのラエで海軍陸戦隊の教官をしていたそうで、私の義兄が大阪高槻の工兵連隊の中隊長でラエにいたので、話が合いましてね。そこで編集者と一緒にペリリュー島の話を聞きに訪ねると、関の孫六なんかを持ち出して、これを使ったんですよなどと言う。しかし、肝心のところになると泣いてしまって、話がとれないんですよ。これはだめだと。, 日本一の現役部隊といわれたのは、鹿児島の歩兵第百四十五連隊(硫黄島で玉砕)と水戸の歩兵第二連隊です。その水戸の第二連隊がペリリュー島で玉砕しているんですが、山の上で最後まで三十二人が頑張っていて、昭和二十二年に降りてきた。そのうち四人にはいつでも会えるというので、水戸まで行くことにしたのですが、これから行きますと連絡をすると、今日は頭が痛い、今日は体の具合が悪いなどと言われる。いまだに複雑なものを抱えているのでしょうね。, それで、これは難しいなと思っていたところに、硫黄島協会事務局長の金井さんにお会いしたわけです。金井さんの話は非常に状況把握が的確で臨場感があり、夢中で三時間ノートを取って。それがきっかけです。, 玉名山陸戦隊の大曲覚さんや野戦病院の衛生兵だった吉住鉄五郎さん。鉄五郎さんは下町の勇み肌の人が年取ったという感じの人です。硫黄島と横須賀との間の衛生資材の移送をしていて、アメリカ軍との決戦で、最後まで金鵄勲章を貰うつもりだったと言っていますよ。その他にも本文には出てきませんが、広島在住の方も訪ねました。, ペリリュー島は現役兵ばかりですが、硫黄島は、補充兵で三十五、六歳とか四十五、六歳という人も引っ張って行かれた。金井さんの部下にも四十歳ぐらいの兵隊がいて、敵が来ても弾の込め方を知らなかった。恥ずかしそうに笑ったのが今でも忘れられないと言っていました。, でも凄い戦いをしています。アメリカ兵は七千人近くが死んでいる。アメリカの負傷者は二万二千人近くで、そのうち大手術を要する負傷者がものすごく多かった(九〇パーセント)そうです。日本軍は全体で二万一千人がいたというけれど、病死したり爆死したりして、実際は一万七、八千人に減っていたでしょう。戦闘で死んだのは、その内の三割の五千人。残りは、投降しようとして後ろから撃たれたり、嫌われた上官が殺されたり、それが一割ぐらいですね。あと六割は、水が無くて、焦熱地獄で、爆死。つまり手榴弾を使っての自殺です。それらすべてを合わせて、日本軍戦死者は一万九千九百人といわれていますが、島にはまだ一万二千体の遺骨が残っているといいます。だから、今でも霊がいっぱい出る。硫黄島に行ったら幽霊の話ばかりです。, 居酒屋で店員を呼んでも気づかれない、注文をよく聞き返される…そんな経験ありませんか? 『声が通らない!』ほか. なんで幕臣の明智光秀が戦に参加するんですか?, さっきアメリカが国家非常事態宣言を出したそうです。ネットで「これはやばい」というコメントを見たのですが、具体的に何がどうやばいんですか?.

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/26 07:17 UTC 版), 硫黄島には陸軍の伊支隊と海軍部隊が所在していたが、1944年6月、小笠原方面最高指揮官として栗林忠道陸軍中将は父島へ赴任した。当初は要塞のある父島に司令部を置くことになっていたが、情勢を調査した結果、アメリカ軍は飛行場適地がある硫黄島へ進攻すると判断した。(陸軍部隊は)他の在小笠原方面部隊と併せ22日に第109師団に改編、師団司令部と主力も硫黄島に移動した(硫黄島に混成第2旅団、父島に混成第1旅団、母島に混成第1連隊を配置)。, しかし栗林中将は、サイパン島の戦いにおける戦訓報において水際での防御戦闘が制空権と制海権を持つアメリカ軍に対して、硫黄島が長く持ちこたえることができないことを承知していた。このため、上陸部隊にできるだけ大きな対価を支払わせ、日本本土への進攻を1日でも遅らせる決意をし、防衛計画の第一歩として軍人・軍属を除く民間人全員の疎開が7月後半までに完了した。次に、島の全面的な要塞化が立案された。地上設備は艦砲射撃や爆撃に耐えられないため、天然の洞窟と人工の坑道からなる広範囲な地下坑道が建設されることになった。, 同年6月26日、海軍のあ号作戦の失敗に伴って、サイパン島奪回が不能となり、これらの戦力として準備された歩兵第146連隊と戦車第26連隊の運用に支障が生じたため、小笠原方面への増強の必要性を大本営が判断し、大本営直轄部隊たる小笠原兵団が編成された。これは第109師団以下の陸軍部隊を「隷下」に、第27航空戦隊以下の海軍部隊を「指揮下」とし、兵団長は栗林中将(第109師団長)が兼任した。この帝国陸軍の小笠原兵団が硫黄島守備隊であり、その主な基幹部隊としては新たに増強された同守備隊唯一の歩兵連隊(他の歩兵戦力は既存の独立歩兵大隊)である歩兵第145連隊(連隊長・池田増雄陸軍大佐)、同じく九七式中戦車(新砲塔)と九五式軽戦車を主力とする戦車第26連隊(連隊長・西竹一陸軍中佐)があり、またその他の有力部隊として、秘密兵器である四式二十糎噴進砲・四式四十糎噴進砲(ロケット砲)を装備する噴進砲中隊(中隊長・横山義雄陸軍大尉)、九八式臼砲を装備する各独立臼砲大隊、九七式中迫撃砲を装備する各中迫撃大隊、一式機動四十七粍砲(対戦車砲)を装備する各独立速射砲大隊が配属されていた。, ペリリューの戦いにおいて、中川州男陸軍大佐の日本陸軍守備隊は地下陣地を活用して長期の抵抗に成功したが、栗林中将はこの戦術をさらに発展させた。1944年6月8日の栗林中将硫黄島着任前は、タラワの戦いやマキンの戦い、サイパンの戦いなどで行われた、一般的なバンザイ突撃のための陣地構築が進められていたが、同月20日には中将はそれを無意味かつ貴重な資材や時間の無駄な浪費として撤回させた。代わりに、内陸部に誘い込んでの持久戦や遊撃戦(ゲリラ)を基本方針(後退配備)とし、23日には陸軍の伊支隊は後方陣地構築に転換した。しかしながら、これに対して同島の千鳥飛行場確保に固執する海軍側(同島守備隊および大本営海軍部)から極めて強硬な批判が起こり(水際陣地および飛行場周囲へのトーチカ群の構築を進言等)、陸軍側(栗林中将)が譲歩する形で一部の水際・飛行場陣地構築を約束することとなる(海軍提供資材をもって陸軍が構築協力。栗林中将自身は持久戦(後方・地下陣地構築)方針は一切変更しておらず、水際・飛行場陣地用海軍提供資材の半分を後方・地下陣地構築に転用している)。なお、海軍が要求したこれらの水際・飛行場陣地はアメリカ軍の砲爆撃によって、わずか十数機の海軍機・飛行場機能ともども早々に壊滅した反面、陸軍の地下陣地は耐え抜いて活用されている。, 栗林中将は後方陣地および、全島の施設を地下で結ぶ全長18kmの坑道構築を計画(設計のために本土から鉱山技師が派遣された)、兵員に対して時間の7割を訓練、3割を工事に充てるよう指示した。硫黄島の火山岩は非常に軟らかかったため十字鍬や円匙などの手工具で掘ることができた。また、司令部・本部附のいわゆる事務職などを含む全将兵に対して陣地構築を命令、工事の遅れを無くすため上官巡視時でも作業中は一切の敬礼を止めるようにするなど指示は合理性を徹底していた。そのほか、最高指揮官(栗林中将)自ら島内各地を巡視し21,000名の全将兵と顔を合わせ、また歩兵第145連隊の軍旗(旭日旗を意匠とする連隊旗)を兵団司令部や連隊本部内ではなく、工事作業場に安置させるなどし将兵のモチベーション維持や軍紀の厳正化にも邁進した。しかしながら主に手作業による地下工事は困難の連続であった。激しい肉体労働に加えて、火山である硫黄島の地下では、防毒マスクを着用せざるを得ない硫黄ガスや、30℃から50℃の地熱にさらされることから、連続した作業は5分間しか続けられなかった。飲用となる清水の入手方法が雨水程度のため、将兵は塩辛く硫黄臭のする井戸水に頼らざるを得ず、激しい下痢に悩まされた。またアメリカ軍の空襲や艦砲射撃による死傷者が出ても、補充や治療は困難であった。「汗の一滴は血の一滴」を合言葉に作業が続けられたが、病死者、脱走者、自殺者が続出した[4]。, 坑道は深い所では地下12mから20m以上(硫黄島で遺骨収用の際、実際に確認されている。)、長さは摺鉢山の北斜面だけでも数kmに上った。地下室の大きさは、少人数用の小洞穴から、300人から400人を収容可能な複数の部屋を備えたものまで多種多様であった。出入口は近くで爆発する砲弾や爆弾の影響を最小限にするための精巧な構造を持ち、兵力がどこか1つの穴に閉じ込められるのを防ぐために複数の出入口と相互の連絡通路を備えていた。また、地下室の大部分に硫黄ガスが発生したため、換気には細心の注意が払われた。, 栗林中将は島北部の北集落から約500m北東の地点に兵団司令部を設置した。司令部は地下20mにあり、坑道によって接続された各種の施設からなっていた。島で2番目に高い屏風山には無線所と気象観測所が設置された。そこからすぐ南東の高台上に、高射機関砲など一部を除く硫黄島の全火砲を指揮する混成第2旅団砲兵団(団長・街道長作陸軍大佐)の本部が置かれた。その他の各拠点にも地下陣地が構築された。地下陣地の中で最も完成度が高かったのが北集落の南に作られた主通信所であった。長さ50m、幅20mの部屋を軸にした施設で、壁と天井の構造は栗林中将の司令部のものとほぼ同じであり、地下20mの坑道がここにつながっていた。摺鉢山の海岸近くのトーチカは鉄筋コンクリートで造られ、壁の厚さは1.2mもあった。, 硫黄島の第一防衛線は、相互に支援可能な何重にも配備された陣地で構成され、北西の海岸から元山飛行場を通り南東方向の南村へ延びていた。至る所にトーチカが設置され、さらに西竹一中佐の戦車第26連隊がこの地区を強化していた。第二防衛線は、硫黄島の最北端である北ノ鼻の南数百mから元山集落を通り東海岸へ至る線とされた。第二線の防御施設は第一線より少なかったが、日本軍は自然の洞穴や地形の特徴を最大限に利用した。摺鉢山は海岸砲およびトーチカからなる半ば独立した防衛区へと組織された。戦車が接近しうる経路には全て対戦車壕が掘削された。摺鉢山北側の地峡部は、南半分は摺鉢山の、北半分は島北部の火砲群が照準に収めていた。, 1944年末には、島に豊富にあった黒い火山灰をセメントと混ぜることでより高品質のコンクリートができることが分かり、硫黄島の陣地構築はさらに加速した。飛行場の付近の海軍陸戦隊陣地では、予備学生出身少尉の発案で、放棄された一式陸攻を地中に埋めて地下待避所とした[5]。アメリカ軍の潜水艦と航空機による妨害によって建設資材が思うように届かず、また上述の通り海軍側の強要により到着した資材および構築兵力を水際・飛行場陣地構築に割かざるを得なかったために、結局坑道はその後に追加された全長28kmの計画のうち17km程度しか完成せず、司令部と摺鉢山を結ぶ坑道も、残りわずかなところで未完成のままアメリカ軍を迎え撃つことになった。だが戦闘が始まると地下陣地は所期の役割を十二分に果たすことになる。, 日本軍の増援部隊も徐々に硫黄島へ到着した。栗林中将はまず大須賀應陸軍少将指揮下の混成第2旅団5,000名を父島から硫黄島へ移動させた。旅団長は12月に千田貞季陸軍少将に交代する。サイパン陥落に伴い、池田益雄大佐の指揮する歩兵第145連隊2,700名も硫黄島へ転進した。海軍ではまず第204建設大隊1,233名が到着し、速やかに地下陣地の建設工事に着手した。8月10日、市丸利之助海軍少将が硫黄島に着任し、続いて飛行部隊および地上勤務者2,216名が到着した。, 次に増強されたのは砲兵であり、1944年末までに75mm以上の火砲約361門が稼動状態となった。, 中でも帝国陸軍の新兵器・ロケット砲(噴進砲)である、四式二十糎噴進砲(弾体重量83.7kg・最大射程2,500m)、四式四十糎噴進砲(弾体重量509.6kg・最大射程4,000m)および、緒戦の南方作戦(シンガポールの戦い等)から実戦投入され、大威力を発揮していたスピガット・モーター(差込型迫撃砲)である九八式臼砲(弾体重量約300kg・最大射程1,200m)などは、航空爆弾に相当する大威力をもつと同時に発射台が簡易構造なことから、迅速に放列布置が可能で、発射後はすぐに地下陣地へ退避することができるという利点を持っていた(また、この噴進砲・臼砲は独特かつ大きな飛翔音を発するため友軍および敵軍に対する心理的効果も備えていた)。, これらの火力は通常の日本軍1個師団が保有する砲兵火力(師団砲兵)の4倍に達しており、また特筆する点として重榴弾砲(九六式十五糎榴弾砲等)や加農(九二式十糎加農・八九式十五糎加農等)といった長射程の重砲ではなく、輸送や操砲が容易で面積が狭い硫黄島での運用に適し、隠匿性に優れる迫撃砲・ロケット砲が集中運用されていることが挙げられる[注 5]。これらの火砲は海空からの支援や補給が絶望的な日本軍守備隊の貴重な大火力であり、また比較的小口径の対戦車砲や野砲も地形を生かした放列布置により多数の戦車・装甲車を撃破するなど、実戦で特に活躍することとなる。しかしながら、海岸砲を主体とする摺鉢山の火砲陣地のみ、海軍の不手際によって敵軍上陸を迎える前に全滅している(同山に展開していた海軍管轄の海岸砲が、栗林中将が事前に定めていた防衛戦術を無視しアメリカ軍の事前砲撃時に発砲を行った結果、火砲位置を露呈してしまい反撃を受けたため)。, さらに、北満駐屯の後に当時は日本領だった朝鮮半島の釜山へ移動していた戦車第26連隊が、硫黄島へ配備された。連隊長は騎兵出身でロサンゼルス・オリンピック馬術金メダリストである、「バロン西」こと男爵西竹一陸軍中佐で、兵員600名と戦車(九七式中戦車・九五式軽戦車)計28両からなっていた。26連隊は陸軍輸送船「日秀丸」に乗り7月中旬に本土を出航したが、7月18日、父島まで250kmの海上でアメリカ海軍のガトー級潜水艦「コビア」の雷撃によって撃沈された。この時の連隊の戦死者は2名だけだったが、戦車は他の硫黄島向け資材や兵器とともに全て海没した。補充は12月に行われ、最終的に11両の九七式中戦車(新砲塔)と12両の九五式軽戦車の計23両が揚陸された。硫黄島に前後するサイパン島、ルソン島、占守島等の戦いと異なり、面積が極めて狭い孤島である硫黄島への戦車連隊の配備は比較的異例であった。西中佐は当初、戦車を機動兵力として運用することを計画したが、熟慮の結果、戦車は移動ないし固定のトーチカとして待伏攻撃に使われることになった。移動トーチカとしては事前に構築した複数の戦車壕に車体をダグインさせ運用し、固定トーチカとしては車体を地面に埋没させるか砲塔のみに分解し、ともに上空や地上から分からないよう巧みに隠蔽・擬装された。, アメリカ軍の潜水艦と航空機による断続的な攻撃によって多くの輸送船が沈められたが、1945年2月まで兵力の増強は続いた。最終的に、小笠原兵団長・栗林中将は小笠原方面陸海軍最高指揮官として陸海軍計兵力21,000名を統一した指揮下に置くことになった。しかしながら、硫黄島総兵力の半数に達する程の海軍部隊については海軍の抵抗により完全なる隷下とすることができず、また最高指揮官である市丸海軍少将以下兵に至るまで陸上戦闘能力は陸軍部隊には及ばない寄せ集めでありながら、水際防御・飛行場確保・地上陣地構築に固執するなど大きな問題もあった。そのため、栗林中将は海軍の一連の不手際、無能・無策を強く非難し、また陸海軍統帥一元化に踏み込んだ内容を含む総括電報「膽参電第三五一号」(最後の戦訓電報)を戦闘後期の1945年3月7日に参謀本部(大本営陸軍部)に対し打電している。, 栗林中将は硫黄島着任間もなくして島民に対して本土または父島への避難(強制疎開)をさせている。日本軍将兵が総力を挙げて要塞化を進める一方で、栗林中将は防御戦術を練っていた。第31軍司令官小畑中将は、上陸には水際防衛で対抗すべしという当時の原則から海岸近くでの戦闘を命じていた。しかし栗林中将は、水際での抵抗はアメリカ軍の艦砲射撃による防御射撃を招き、意味が薄いと考えていた(実際にサイパンの戦いで水際作戦を取った際には、上陸3日で3万人の守備隊が壊滅する事態に陥っていた[7])。栗林中将の採用した戦術は、サイパンやペリリューの戦訓を勘案し、従来の水際防御戦術を改めて内陸での持久抵抗戦を主とし、上陸した敵部隊に消耗を強いることを主眼とする以下のようなものであった。, 火砲は摺鉢山の斜面と元山飛行場北側の高台の、海上からは死角となる位置に巧みに隠蔽されて配置された。食糧と弾薬は持久抵抗に必要となる2.5か月分が備蓄された。, だが、混成第2旅団長の大須賀應陸軍少将、第109師団参謀長の堀静一陸軍大佐、硫黄島警備隊および南方諸島海軍航空隊司令の井上左馬二海軍大佐らは、水際作戦にこだわり、栗林中将の戦術に強く反対したため、大須賀少将・堀大佐を賛成派の千田貞季陸軍少将・高石正陸軍大佐にそれぞれ交代し、司令部の意思の統一を図った[8]。, 1945年1月に発令された最終作戦は、陣地死守と強力な相互支援を要求したもので、従来の攻撃偏重の日本軍の戦術を転換するものであった。兵力の大幅な損耗に繋がる、防護された敵陣地への肉弾突撃・万歳突撃は厳禁された。, また、栗林は自ら起草した『敢闘ノ誓』を硫黄島守備隊全員に配布し、戦闘方針を徹底するとともに士気の維持にも努めている。, 特に最後の「一 我等ハ敵十人ヲ斃サザレバ死ストモ死セズ」と「一 我等ハ最後ノ一人トナルモゲリラニ依ツテ敵ヲ悩マサン」は、長期持久戦を隷下将兵に徹底させる旨の一文であり、この誓いは実際の戦闘で生かされることとなる。, さらに陣地防御と持久戦を重要視した実践的指導として、同じく栗林が起草・配布した『膽兵ノ戦闘心得』では以下のように詳述している(膽兵の「膽」とは第109師団の兵団文字符)。, 防御準備の最後の数か月間、栗林中将は、兵員の建設作業と訓練との時間配分に腐心した。訓練により多くの時間を割くため、北飛行場での作業を停止した。12月前半の作戦命令により、1945年2月11日が防御準備の完成目標日とされた。12月8日、アメリカ軍航空部隊は硫黄島に800tを超える爆弾を投下したが、日本軍陣地には損害をほとんど与えられなかった。以降、アメリカ軍のB-24爆撃機がほぼ毎晩硫黄島上空に現れ、航空母艦と巡洋艦も小笠原諸島へ頻繁に出撃した。頻繁な空襲で作業は妨害され、守備隊も眠れぬ夜が続いたが、実質的に作業進行が遅れることはなかった。1月2日、十数機のB-24爆撃機が千鳥飛行場を空襲し損害を与えたが、栗林中将は応急修理に600名を超える人員と、11台の自動貨車および2台のブルドーザーを投入し、飛行場をわずか12時間後に再び使用可能とした。飛行場確保に固執する海軍の要請により飛ばす飛行機も無いのに行われた飛行場修復を、のちに栗林中将は戦訓電報で批判している。, 1945年1月5日、市丸少将は指令所に海軍の上級将校を集め、レイテ沖海戦で連合艦隊が壊滅したこと、そして硫黄島が間もなくアメリカ軍の侵攻を受けるだろうという予測を伝えた。2月13日、海軍の偵察機がサイパンから北西へ移動する170隻のアメリカ軍の大船団・艦隊を発見する。小笠原諸島の日本軍全部隊に警報が出され、硫黄島も迎撃準備を整えた。, なお、硫黄島守備隊は映像(ニュース映画)である日本ニュースで2回報道されている。「第246号」(「戦雲迫る硫黄島」2分36秒。他3本。1945年2月20日公開)では、2月16日頃にアメリカ軍が行った硫黄島空襲に対し迎撃や対空戦闘を行う海軍部隊の様子が。「第247号」(「硫黄島」3分14秒。他2本。3月8日公開)では、硫黄島神社に揃って参拝する陸海両軍の軍人・木枝から滴る水を瓶で集めての飲料水化・地熱と温泉を利用する飯盒炊爨など、硫黄島における将兵の日常生活、また一〇〇式火焔発射機による火焔攻撃、戦車第26連隊の九七式中戦車改や九五式軽戦車を仮想敵とした肉薄攻撃など、戦闘訓練の模様が撮影されていると同時に、「前線指揮所に、敵必殺の策を練る我が最高指揮官、栗林陸軍中将」とのナレーションのもとわずか数秒足らずではあるものの、両ラペルに中将襟章(昭18制)を付した開襟シャツ姿の栗林中将の鮮明な映像が収められている。, 硫黄島の戦いのページの著作権Weblio 辞書情報提供元は参加元一覧にて確認できます。, ビジネス|業界用語|コンピュータ|電車|自動車・バイク|船|工学|建築・不動産|学問文化|生活|ヘルスケア|趣味|スポーツ|生物|食品|人名|方言|辞書・百科事典, 「硫黄島」の呼称は、戦前から「いおうとう」「いおうじま」の2種類が混在しており、日本軍は主に「いおうとう」を使用していた。2007年6月18日以降は「いおうとう」が, 独立歩兵第309大隊機関銃中隊(中隊長:阿部武雄陸軍中尉) - 阿部中隊長は捕虜となるが、戦後、硫黄島協会常任理事となり戦没者の慰霊に奔走する。, 時期尚早に思える日本軍の攻撃は、展開する海軍砲陣地が準備砲撃で全滅寸前となり、生き残った将兵が最後に一矢報いんと敵艦に向かい砲撃を開始したという説もある。.