■履き物、灯心、砥石などの生産・販売もえた・ひにん身分の仕事とされていた。 江戸時代の身分制度の背景や目的.

■えた・ひにんの身分は政治権力のみによって作られたのではない。 飽食の時代と言われる現代は様々な料理や食べ物で人生を楽しむことができる幸せな世の中ですが、江戸時代の食事はどうだったのでしょう。将軍と庶民、武士と農民など身分の差が大きかった江戸時代。その食事事情を食べ物と料理の面で見ていきましょう。, この記事では江戸時代の庶民から将軍まで食事に関することをご紹介しますが、そのためにまず江戸時代の基礎知識を知っておきましょう。身分制度から生活様式まで、簡単に解説していきます。, 江戸時代は徳川家康が征夷大将軍に任命され、江戸に幕府を開いた1603年にスタート。この後15代に渡る徳川将軍家の統治が続き、日本の歴史上比較的平和な時代が続きます。, 1868年、明治政府が樹立したことで江戸時代は終焉を迎えます。家康が幕府を開いてから265年、2世紀半を超える超ロングラン政権が幕を閉じ、日本は身分制度も文化も大きく変化する明治時代へと移り変わります。, 265年もの期間を一括りにしていいのかという問題ですが、この期間のほとんどが鎖国の状態だったために文化や庶民生活などの大きな変化はありませんでした。, 歴史の勉強を通じて「士農工商」という身分制度があったことは良く知られているところですが、実際の庶民はどのような身分にあったのでしょうか。, 「農民」と「百姓」を同じ意味で使うのは日本だけと言われています。また、日本でも百姓と呼ばれる人の範囲は時代によって変化していましたが、江戸時代に入ってから農業に携わる人を指す言葉として使われるようになっています。, 「士農工商」の中で「工」と「商」に該当する職人や商人のうち、都市部に住む者を総称して「町人」と呼びます。, 都市部に住む町人のうち、店を経営する一部の商人以外の多くは平屋建ての長屋に住んでいました。今でいうところのワンルームで、大火事の頻発した江戸時代にはすぐ立て直せるように簡単な木造家屋だったと言われています。, 江戸時代の町人が暮らす長屋にはテーブルもちゃぶ台もありませんでした。食事の際は画像のような「お膳」をテーブル代わりに使い、釜で炊いたごはんは「おひつ」に入れて保存していました。, 江戸時代にも税金があったことはご存知でしょう。そして、「年貢」と呼ばれる米や野菜などの生産物を納める税制であったことも広く知られています。, しかし、農民ではない町人が年貢を納めることはできません。そこで別の税として「運上(うんじょう)」という制度がありました。つまり、農民は「年貢」を、それ以外の仕事をするものは「運上」を納めるようになっていたのです。また、江戸時代には年貢と運上の他にも多くの課税制度がありました。, 日本人の食事と言えば、昔も今も「ごはん」。今は健康のために玄米や麦飯を白米に混ぜて食す人もいますが、精米された白いごはんが主流であることは疑う余地のないところです。それでは江戸時代のお米事情はどうだったのでしょうか。, 現代でも米不足で日本中が大騒ぎになったことがありますが、その際に「実家が農家から送ってもらった」という人もいたくらい「農家には自分達用の米がある」というイメージがあります。しかし、江戸時代の農民にとっては白米を食べることはごく稀だったと言われています。理由は先に挙げた税金「年貢」の影響で、農民は作った米を税として納めなければいけませんでした。, 年貢を納めた後に残った米が全て自分の食事になるわけではなく、そこから卸して収入を得なければいけません。農民の手元に残る米は、翌年の収穫まで充分足りる量ではなかったと言われています。, 信州長野の農民は米を単独で食すのではなく、ひえや大根(葉も含む)などの食べ物を一緒に煮ていたと伝えられています。この他にもそば粉を使った焼き餅や団子と大根の汁物で栄養を摂り入れていたとされています。, 地方のお百姓さんが「かてめし」などの工夫で米の消費を抑えた食事をしていたのに対し、大都市・江戸の町人は白米を大量に消費していたと言われています。, 左の画像は典型的な江戸の町人が摂っていた食事の再現で、白米・野菜入りの汁物・そして漬物と、いうシンプルなものでした。地方のお百姓さんが食べれなかった白米がメインだった町人の食生活ですが、この食事が思わぬ病気の原因となっていたのです…。, 江戸の町人の間で多かった病気を「江戸わずらい」と言います。その正体は「脚気(かっけ)」で、白米中心の偏った食事によってビタミンB1が不足したのが主な原因。その証拠に、江戸から離れて生活を始めたところ病気はすっかり良くなったという伝聞が残っています。画像の中央下は「江戸わずらい」にかかって歩行できなくなった人物が四輪車に乗って移動している姿を描いています。, 「1、2、3、4、5、6、7…今、何時だい?」のセ今リフで有名な落語の『時そば』。その名の通りそばが背景に登場しますが、その舞台は江戸時代のそば屋(元は関西だったが、今は江戸がスタンダードな設定になっていると言われています)。江戸の町には外食の店があり、町人や武士がご馳走として親しんだそうです。, リヤカー風の屋台ではなく、画像のように自ら担いで移動する形式の屋台が当時の主流でした。, 17世紀末ごろに生まれたとされるかけそば。それまでのそばの食べ方は「そばがき」と呼ばれる薄い団子状のもので、麺としてのそばは「そば切り」と呼ばれていました。江戸時代に「そば切り」が流行したことをきっかけに、「そば=そば切り」という考えが定着しました。, そばと同様に屋台で人気を博した食べ物が「天ぷら」でした。油で揚げるという料理も江戸時代になってから定着したんですね。, 左の画像は天ぷらの屋台とそれを利用する武士、子ども、女性を描いたものです。一汁一菜の食事をしていた庶民にとって、こうした食べ物はまさにご馳走だったでしょう。, 江戸の庶民や武士の生活に彩りを与えた天ぷらですが、画像のように串にさして揚げるのが一般的でした。野菜・エビ・アナゴ・貝類・肉と種類も豊富な料理として親しまれました。, 江戸時代にはそばや天ぷらの他にも大流行した食べ物がたくさんあります。その中でも特筆すべきは「寿司」。今のような握り寿司が考案されて庶民の間で大流行したのは江戸時代末期のことでした。現代では「高価な食べ物」という印象がありますが、当時は屋台で手軽に食事をするファストフード的な存在でした。, そばや天ぷらと同様、江戸の町に屋台が出ていた寿司屋。人通りの多い道で営業していることから、人々の生活に溶け込んでいるのがわかります。画像を見るといくつも握って陳列しておくスタイルだったことも知ることができますね。, 画像は「東海道五十三次絵」で知られる歌川広重の浮世絵として描かれた寿司です。エビはボイルしたもので卵は巻物になっているなど、当時の寿司がどのような食べ物であったかを窺い知ることができます。, 江戸時代の百姓、町人の食事と生活の中で流行した料理について見てきましたが、ここからは身分制度の最上級に位置する「士」、武士の食生活を覗いてみましょう。, 一言で「武士」と言っても、将軍・大名から上級武士、下級武士という区分けがあり、さらにどこの藩にも雇われない浪人もいました。特に下級武士や浪人たちは生計を立てるために内職をしたり、大名屋敷の庭で家庭菜園をして食べ物を自己調達したりもしていました。画像は時代劇でお馴染みの内職、「傘張り」です。, 左の画像は下級武士の食事を再現したものですが、みそ汁に漬物、野菜の煮つけと粥や雑炊が主な料理だったと言われています。, 食べ物は町人のメイン食材だった白米が雑炊などに変わったりと、決して贅沢はできなかったようです。食事の支度は奥方が行っていましたが、独身の下級武士は総菜の行商や「賄い屋」と呼ばれるデリバリーから取り寄せるなどもしていたとされています。現代のコンビニ弁当&出前という感覚だったわけですね。, 次は日本各地に封ぜられた大名の食事です。伊達政宗で有名な仙台藩の正月料理をご覧いただきましょう。, 幕末の世、東北地方太平洋側に位置する仙台藩の藩主となった伊達慶邦。彼に仕えた家臣が伊達家の正月料理に関する記録を残しています。, それでは、仙台藩の正月料理を4枚の画像でご覧いただきましょう。我々が普段食べている料理は入っているのでしょうか。, 本膳(一の膳)は米・汁物・漬物・納豆・和え物・鮭軟骨のなます・ナマコの塩辛・みそ味の煮物。汁物の具には白鳥の肉が使われていたそうですが、食肉の養殖がまだ進んでいなかった当時は野鳥を食すのが習慣だったと言われています。, 二の膳は主に海の幸。伊勢海老・鱈の汁物・鮭の飯寿司・鮭の漬けびたしに酒をかけたもの・鴨肉の煮つけ。, 三の膳は鯉に卵をまぶした刺身・かまぼこ・するめと大根の水和・鮭のハラス筋子詰め・汁物。, 伊達家では代々鮭を使った料理が出されていたとされていますが、この正月料理でもふんだんに使われているのが分かります。その他の料理も主に魚介類で占められており、肉は野鳥である白鳥・鴨、変わったところで鯨肉と我々が普段食べている肉とは大きな違いがありますね。, 最後に全国の大名を束ねる武士の最高位で江戸城を居城としていた将軍の食事を見てみましょう。武士社会の最高峰に君臨した人物が普段口にした食べ物は、現代の我々も驚くような贅沢品だったのでしょうか。, 徳川家の家紋「三つ葉葵」が描かれたお膳。この中にはどのような料理が盛り付けられていたのでしょう?, 初代将軍の家康と八代将軍の吉宗では、一食あたりの料理数が異なっていたと伝わっています。家康は「一汁一菜」、吉宗は「一汁三菜」で、つまりおかずの数が一品と三品の違いだったとのこと。, ごはんと漬物のほか、汁物、刺身、鳥肉料理(鴨や雁などの野鳥の肉)など汁物1品におかずが1~3品が将軍の食事でした。また、魚でも鱚(きす)は縁起がいい名前(漢字)だったため毎日食べられましたが、逆に「このしろ」は『この城を食う』という理由で縁起が悪いとして禁忌の魚だったと言われています。野菜でも匂いのきつい食材は避けられ、ねぎやにんにくはNGでした。, 江戸時代の百姓・町人・武士・大名・将軍の食事や江戸の町で流行った食べ物をご紹介しましたがいかがだったでしょうか。偏った食事で病気になることも現代の生活習慣病問題に似て、学ぶべき点が多々あるものですね。, 東京周辺のパンチラスポットTOP25【フロントパンチラ/反射パンチラ/胸チラ…】, 江戸時代の庶民の食事が衝撃的すぎる!再現された当時の日本人の料理のページです。Cosmic[コズミック]はファッション・カルチャー・芸能エンタメ・ライフスタイル・社会の情報を発信するメディアです。大人へ向けた記事をまとめて読むことができるWebマガジンを無料で購読いただけます。. 江戸時代に士農工商という身分制度がおかれた理由は、将軍や藩主と言った武士たちが一般の町人を管理しやすくするためと言われ … (adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({}); 日本という国はほとんどと言ってもいいほど侵略されたことはありません。 しかし、鎌倉時代の時に一回侵略されたことがあります。 今回はそんな『元寇(げんこう)』についてわかりやすく解説していきます。 元寇とは? (元寇「文永の役」 出典:Wikipedia) 元寇とは、鎌倉幕府中期から後期に... “ご法度です!”この言葉、聞いたことありませんか? 禁じられていることや、してはいけない事を言う時に使います。“ご法度”は、“法度”の丁寧語。 つまり、江戸時代を代表する法令「武家諸法度」とは、武家(大名)がしてはいけないことを示した法という意味になります。 今回は、この『武家諸法度(ぶけし... 江戸幕府がその基礎を固めつつある時期、農民を統制するための御触書「慶安の御触書」が諸国に広まりました。 今回は、この『慶安の御触書(けいあんのおふれがき)』についてわかりやすく解説します。 慶安の御触書とは? 慶安の御触書とは、1649年(慶安2年)に幕府によって出された農民統制のための御... 日本の歴史上最大規模の一揆と言われる島原の乱。 この乱は日本のその後の鎖国政策に大きな影響を与えました。 今回はそんな『島原の乱』がなぜ起こったのか、時代背景やその後など、わかりやすく解説ていきます。   島原の乱とは (島原の乱図屏風 引用元) 島原の乱とは、1637年(寛永14年)から... 今の時代人々は平等で全員に権利や自由があります。 しかし、江戸時代ではある程度の身分があってそれに伴って権利や自由が存在していました。 今回はそんな不自由な時代に存在した身分制度『士農工商(しのうこうしょう)』について、そしてその下の不自由だった存在えた・ひにんについても、わかりやすく解説して... タイトルは「身分差別社会の真実」であるが、内容は身分差別社会全般を扱っているわけでなく、「えた・ひにんの実態」と言えるものである。学校教育から知ることの出来ないその実態には、以下のことなどが挙げられる。, えた・ひにん身分の人たちが差別されていたことは確かだが、それ以外の人たちとの交流を断たれて社会の片隅に追いやられ、惨めな非人間的生活を送っていたと言うわけでもない。えた・ひにんの実態から、江戸時代の身分差別社会を単純にピラミッド化して考えない方がよいと教えてくれる著作である。. 〇江戸には表通りに土地を借りて、家や店を構えた中堅の商人や職人層である地借家持(じしやくいえもち)や長屋住人である店借(たながり)の店子(たなこ)と呼ばれる土地も家も持たない借家人などの様々な身分の人々がいた。 ■えた・ひにん身分の人たちは下級警察的役務にも従事していた。 江戸時代は土地を所有するかどうかで町人の身分が決まった。 したがって地主(家持)とこれに準じる家主・家守(大家とも呼ばれた)は正式の町人として町政の構成員に席をつらね、借家人は一人前の町人として認められていなかった。

飽食の時代と言われる現代は様々な料理や食べ物で人生を楽しむことができる幸せな世の中ですが、江戸時代の食事はどうだったのでしょう。将軍と庶民、武士と農民など身分の差が大きかった江戸時代。その食事事情を食べ物と料理の面で見ていきましょう。 江戸時代前半頃までの女性の髪形は、背中に長く髪を下ろした下げ髪が主流だったが、17世紀末以降に結い上げるようになり、18世紀半ば頃に女性が女性の髪を結う「女髪結」という職人が登場した。女髪結たちは、「ふけ取り3年」と表現されるように櫛を使ってていねいにふけを落とすとこ … 江戸時代が身分の違いによる格差社会であったことはよく知られています。一定の年齢以上の方は、江戸時代には「士農工商」という身分制度があり、士(武士)、農(百姓)、工(職人)、商(商人)の順で身分が差別されていたと学校の授業で習ったのではないでしょうか。しかし、近年の研究によって、現在は「士農工商」という身分制度はなかったとされており、教科書にも載っていません。とはいえ、江戸の世は身分の格差が色濃く反映された時代でした。今回は、そんな江戸時代の身分制度について詳しくご紹介していきます。, 多くの方が学校の授業で習った「士農工商」。教科書出版大手の東京書籍が発行する教科書では、すでに平成12年度からその記述は削除されていたのだそうです。なぜ「士農工商」は教科書からなくなってしまったのでしょうか。, 「士農工商」という言葉は、実は中国で古くから使われていたもので、日本で作られた言葉ではありません。漢書に「士農工商、四民に業あり」とあるように、本来は広くあらゆる職業の人々を指す言葉で、「民衆」「みんな」といった意味で使われていたようです。かつてはこの言葉が江戸時代の身分制度と上下関係を表す用語と考えられていましたが、近年の研究成果により、江戸時代には単純に「士農工商」という言葉で身分を分類していなかったということがわかりました。江戸時代の基本的な身分としては、「武士、百姓・町人等、えた・ひにん等」が存在し、その他の身分として天皇や公家、神主や僧侶などがいたというのが実態です。, 江戸時代の身分による上下関係を「士-農-工-商-えた・ひにん」という言葉で教わった方も多いと思いますが、この認識も適切ではありませんでした。武士が支配層として上位であることは間違いありませんが、他の身分については上下関係や支配・被支配といった関係はなく、対等なものだったのです。また、えた・ひにんと呼ばれていた人たちも「武士-百姓・町人等」の社会から排除された「外」の民として存在させられ、ほかの身分の下位ではなく、武士の支配下にありました。, 「士農工商」ではなかったとはいえ、江戸時代には様々な身分と格差がありました。ここからは江戸時代に存在した身分についてご紹介していきます。, 身分制度の中で、一番上にいたのは武士です。特権階級だった武士は、苗字を名乗ること、帯刀することが認められており、幕府や藩からもらう扶持(ふち)を主な収入源として生活していました。しかし、武士といっても大名から下級武士まで、身分には大きな開きがありました。下級武士になると、安い給料しか得られないため副業に励む者も多く、一般の町人と同レベルの生活水準だった者もいたようです。一方、上級武士の場合、漆塗りの蓋をしてあるような、畳敷きの広い厠(トイレ)付きの豪華な家に住む者もいました。, 江戸時代、人口の約8割は百姓だったとされています。百姓というと農業を営む人々をイメージしてしまいますが、漁業や林業に従事する人々も百姓に含まれていました。村には村役人という百姓の代表者が置かれ、名主(なぬし:関西では庄屋)、組頭(くみがしら)、百姓代(ひゃくしょうだい)の3つの役で構成していました。また、自治的役割と租税の安定のために、五人組(または十人組)の制度をつくり、5戸(10戸)を1組として連帯責任を負わせました。, 村に住む人たちを百姓と呼ぶのに対し、町に住む人々は町人と呼ばれました。職人や商人を合わせた町人層は全体の5%ほどで、百姓との間には身分の序列はなかったようです。同じ町人の中でも格差は存在し、家屋敷を所有して店を構える「家持」や、家屋敷を所有して人に貸し出す「地主」のような富裕町人は町政や公事にも参加していました。江戸時代も半ばになると、紀伊国屋文左衛門など富豪の商人が現れ始めます。反対に、財政的に困窮する大名や武士たちが、商人にお金を工面してもらうことも起こるようになったようです。成功し富豪となった商人の中には、「扶持米」(ふちまい)を大名から得られるようになったり、武士の身分を与えられたりした者もいました。, 公家、僧侶、医者などの身分の人たちは、上級の武士にしか認められない権利を持っており、いわゆる支配階級として厚遇を受けていました。この中で一番身分が高いのは公家で、僧侶、医者と続きます。江戸時代は世襲制だったため、職業を選択する自由のない時代でしたが、知識さえあれば医者になることができました。優秀ならば藩や大名などに直接雇われることもあったのです。落語の「代脈」などを聞くと、上級武士と同じように、医者は籠(かご)に乗ることも認められていたことがわかります。, 「えた」「ひにん」などと呼ばれた人々は、武士はもちろん百姓、町人からも一線を画されていました。彼らは「同じ人間ではない」といった見方をされ、社会から排除されていたのです。百姓、町人の平人が武士になることは滅多にないように、平人が「えた」「ひにん」になることも滅多にありませんでした。, 1990年代になると、江戸時代の身分制度「士農工商」はなかったことが明らかとなり、2000年代には「士農工商」の記述は教科書から外されるようになりました。それでも江戸時代は、身分制度の世の中であったことには変わりません。職業選択の自由はなく世襲が原則。中には人として扱われないような人々が存在する差別的社会でした。現代では、職業選択の自由により、生まれながらに職業などを制約されることはありません。江戸時代の社会には、今の時代では考えられないような身分による差別がたくさんあったのです。. 江戸時代の身分制度は、以前まで言われていた「上見て暮らすな、下見て暮らせ」のように最初から差別政策を目的につくられたのではなかった。秀吉の兵農分離政策を受け継いで、中世まであった流動的な身分を固定していったというのが、現在の身分制度の捉え方である。 江戸時代の身分�

江戸時代が身分の違いによる格差社会であったことはよく知られています。一定の年齢以上の方は、江戸時代には「士農工商」という身分制度があり、士(武士)、農(百姓)、工(職人)、商(商人)の順で身分が差別されていたと学校の授業で習ったのではないでしょうか。 えた・ひにん身分の人たちが差別されていたことは確かだが、それ以外の人たちとの交流を断たれて社会の片隅に追いやられ、惨めな非人間的生活を送っていたと言うわけでもない。えた・ひにんの実態から、江戸時代の身分差別社会を単純にピラミッド化して考えない方がよいと教えてくれる著作である。, 江戸時代の身分制度が士農工商+「えた」「ひにん」からなっていたという通説が誤解を与えるものであり、不適切な表現という指摘から、本書は始まる。, あえていえば武士階級と平民(農民、町民と商人)と、そして被差別階級があり、それぞれの内部での上下関係は厳しく固定であったという。そして江戸時代には、その時代の身分制度の表現として「士農工商」のような用語はなかったらしく、この用語が妙な市民権を得るのは明治に入ってからのようである。このことが確認され、本書はその後、畿内を中心に全国に広まった中世、近世以降の被差別階級の生活の実態にメスを入れる。, 彼らは斃牛馬の処分にあたり、皮革業、雪駄の生産と販売、砥石の生産に従事した。特別年貢納令の枠がはめられたこともあり、平民との婚姻は著しく制限され、下級警察組織、番牢人の役割もになった。ケガレた存在として忌み嫌われ、社会的地位は貶められた。しかし、一面で彼らの生活は必ずしも悲惨なばかりでなく、それなりの豊かさを確保したものもいた。また、被差別階級の地位の改善のために闘った事例の紹介もある。, 著者はこれらの被差別階級がどうして存在するようになったのかについて、それがときの権力によって意図的に作られたものとする見解を排し、「みんな」すなわち「社会」によって生み出されたものとする見地に立っている。従来の多くの研究成果をふまえ、実例をあげ、問題に切り込んでいく姿勢は評価できる。. ①身分制度を設け、階級をつける目的.

しかし、人権が保障されるようになったのはつい最近の出来事。日本にも人権を持たない人たちがいた時代がありました。, 江戸時代には、えた・ひにんと呼ばれる差別を受ける人、また差別を受けないまでも士農工商という身分制度があり、生活を制限されていた人たちも居ました。, 士農工商の順番に武士が最も高い身分で、続いて農民、三番目が職人、最後が商人という順番でした。, さらに、士農工商の下に奴隷のような扱いを受けていた、えた・ひにんと言われる人々が居ました。, 江戸時代に士農工商という身分制度がおかれた理由は、将軍や藩主と言った武士たちが一般の町人を管理しやすくするためと言われています。, なぜ、管理をすることになるのかと言うと、徳川家康を始めとする各将軍は江戸幕府を運営するときに過去の幕府の失敗に対して気をつけていたと言われています。, 元が日本に攻めてきたことがきっかけとなり御家人への恩賞を与えることができずに鎌倉幕府は滅びることになりました。, そのため、大名に対する統制を取ることができないと幕府が滅びることを徳川家は学んでいたのです。, これらのことから江戸幕府では海外に対して、大名に対して、農民に対して気をつけた政策をおこなっていくのです。, 過去の幕府の失敗に対して気をつけていた江戸幕府は、様々な対策をおこなっていきます。, まず、外国に対しては鎖国政策を実施します。鎖国をおこなった理由に関しては後述していきます。, 農民は人口の割合でいうと最も高く農民が団結して一揆などを起こすと厄介だと考えました。そこで、身分制度を行うのです。, しかし、農民の立場を低くしてしまうと不満がたまり一揆などが起こりやすくなってしまいます。, えた・ひにんは、差別され奴隷として扱われていた人々です。えた・ひにんを見ると農民は自分たちはまだマシであると考えるようになるのです。, 書いてあった内容は、百姓は朝早く起きなければいけないことや、水しか飲んではいけないことなど質素倹約を求められる文言が記載されていました。, これにより、武士の統制に成功するとともに安定して年貢を納めさせることに成功しました。, ここまでお話してきたように江戸幕府は農民の統制に成功します。しかし、身分制度が危ぶまれるものが日本に入ってきました。, キリスト教の教えでは【人類は皆平等】。そのため、世界でも影響力の強いキリスト教の考え方が国内に広まると士農工商の身分制度自体が危ぶまれると考えました。, そこでキリスト教を禁止し、儒学を奨励していきます。もう既に国内でもキリスト教が広まっており、キリシタン大名と呼ばれる人々も現れ始めました。, キリスト教を取り締まるために絵踏みや寺請制度を設けてキリスト教を弾圧していきました。, また、切り捨て御免という特権も与えられており、身分が下のものが武士に対して非礼を働いた場合には切って良いという特権を持っていました。, 農民は、立場こそ高いですが、慶安の御触書で生活を管理され安定して年貢を納めるようにされていました。住む場所も城下から少し離れた場所で農業を営みます。, そして身分は生まれ持ったものであり、農民の子は農民、武士の子は武士という世襲制となっていたのです。, えた・ひにんと呼ばれていた士農工商の下の立場の人々は奴隷のように扱われていました。, えた・ひにんの人々は清掃や革製品の取り扱い、牢の番人など汚らわしいとされる仕事をしてきました。, そのため差別を受け、一般人との結婚が許されず、同じ地域で生活をすることを義務付けられることになるのです。, タイトルは「身分差別社会の真実」であるが、内容は身分差別社会全般を扱っているわけでなく、「えた・ひにんの実態」と言えるものである。学校教育から知ることの出来ないその実態には、以下のことなどが挙げられる。