福岡県豊前市でほぼ原形をとどめて出土した奈良時代のものと思われる蔵骨器(骨つぼ)が、市立埋蔵文化財センター(同市八屋)に常設展示されている。大分県在住の男性から…(2020年11月12日 18時13分36秒) 03. 奈良時代の日本史です。 教科書には「奈良時代には、仏教は国家の保護を受けてさらに発展した」 「一方で、仏教は政府からきびしく統制を受け、一般に僧侶の活動も寺院内に限られていた」とあ り、矛盾してるように思えたんですが、国家と政府とは違うのですか? 日本の仏教(にほんのぶっきょう)は、5世紀に罽賓国よりもたらされたとする説や、西暦538年(日本書紀では552年)に百済よりもたらされたとする説などがあるが、宗派により伝来時期や伝来元の地域が異なる。 約8470万人が仏教徒であるとされる(2013年統計) 。 奈良時代(ならじだい)は、日本の歴史の時代区分の一つで、平城京(奈良・現奈良県 奈良市)に都が置かれた時代で平城時代(へいじょうじだい)ともいう。 元号による時代区分では天平時代とされる。日本仏教による鎮護国家を目指して天平文化が花開いた時期とされる。 源氏と平氏 ・・ 武士誕生と平氏の繁栄.

私達が「神様」へ祈る文化に、宗教的な感覚は含まれない こんにちは、婿殿HIRO(@donomuko16)です。 さて、これまでの記事では神仏融合と神仏分離について解説してきましたが、こうした議論をしていると、そもそも「神」とはいったい何なのか分からなくなります。 新型コロナウイルスによるパンデミックは大方の日本人にとって未知の体験です。しかしこれまでの内外の歴史を見ると、人類は感染症とともに生きてきました。感染症の原因が究明され、有効な治療・予防法が生み出されてきたのは、人類の歴史から見ればつい最近のことです。そして医学の長足の進歩は、少なくとも先進国の人々が感染症の恐怖から遠ざかることを可能にしました。今回のパンデミックは、こんな我々の安穏な日常を覆し、人類の感染症との苦い「闘い」の記憶を呼びさましてくれることになりました。細菌やウイルスの存在など知るよしもなく、医学も未発達な時代、人々は如何に感染症に立ち向かい翻弄され乗り越えてきたのでしょうか。, 天平元年(729)2月、時の太政官トップの左大臣正三位長屋王が国家転覆を謀ったという冤罪を着せられ、正室の吉備内親王と四人の皇子、膳夫(かしはで)王、桑田王、葛木(かずらき)王、鈎取(かぎとり)王とともに自殺させられる大事件が起きました。藤原氏による謀略でした。これ以降、権力基盤を盤石にした藤原氏を中心に律令体制の整備が図られていきますが、長くは続きませんでした。, 天平7年(735)8月12日、聖武天皇の詔(みことのり)が出ます。以下、『続日本紀』の記述を見ていきます。「この頃、大宰府管内に疫病で亡くなる者が多い。病を鎮め民を救うため、大宰府管内の天神地祇に奉幣し祈らせよ、管内の寺は金剛般若経を読め。使者を遣わせ病者に賑給(しんごう=給付)し湯薬を与えよ。長門より東の国の長官と次官は斎戒し、道饗祭(みちあえのまつり)を祀れ」。23日条には、大宰府からの嘆願があり、「管内では疫瘡が大いに流行り、百姓ことごとく臥す.今年の貢調〈特産物の貢進〉を停止させて欲しい」と申し入れて認められました。疫瘡とあり、天然痘であることがわかります。, すでにこの年の5月の詔に「この頃、災異しきりに起こり咎めの徴が現れる。」とあり、夏には天然痘が広がっていたようです。大赦が下され、高齢者、高年で妻・夫のいない者、孤児、病人等に賑恤(しんじゅつ=給付)が行われ、税金の一部が免除されます。そして宮中、大安寺、薬師寺、元興寺、興福寺に大般若経の転読が命じられました。, 9月には一品新田部親王、11月には知太政官事一品舎人親王が相次いで薨去しました。天然痘のせいとは記されていませんが、その可能性があります。二人は天武天皇の皇親として政界の重鎮であり、長屋王の事件のさい現場に参じ王の糾問にあたりました。, 『続日本紀』はこの年を回想して、「この歳、すこぶる穀物は実らず。夏より冬に至るまで天下に豌豆瘡(わんとうそう)はやる。若くして死ぬ者が多い」と特別に記しています。, 大宰府管内から天然痘は流行を見たようなので、大陸や朝鮮半島からもたらされた可能性が高いでしょう。この年の2月には、新羅の使節が平城京を訪ねているので、感染源に彼らを疑う説があります。また前年の11月には遣唐使が帰国しているので、こちらも疑えるかもしれません。, 翌天平8年(736)は『続日本紀』に天然痘のことは出てこないので、一応治まったか小康状態になったのでしょうか。6月に吉野離宮への行幸が11年ぶりに実行されました。このとき随従した山辺赤人の長歌と反歌が残っています(巻6-1005・1006)。8万5千点の出土を見た二条大路木簡の中にこの行幸に関する木簡があり、そこに次のような文字がありました。, 「南山之下有不流水其中有 一大蛇九頭一尾不食余物但 食唐鬼朝食 三千 暮食 八百 急々如律令」, 渡辺晃宏氏(奈良文化財研究所)は、これを「南山の麓に流れない水があって、そこに九つの頭と一つの尻尾をもつ大蛇が棲んでいる。ほかに何を喰らうでもなく、ただ唐の鬼だけを喰らう。朝に三千匹、夕に八百匹。願いが即刻かないますように」と解釈されます。南山は吉野山であり唐鬼は天然痘を意味して、水の神である九頭龍神に疾病の調伏を祈る呪符木簡ということになります。そこで、吉野行幸の目的が天然痘の退散を祈願するものであり、この年も病の勢いは衰えていなかったというのが、渡辺氏の推測です。, 3月には、国ごとに釈迦如来仏と脇士像を作り、大般若経を写経することが指示されています。これは天平13年(741)の国分寺建立の詔の中でも言及されていて、国分寺創建の原点には天然痘平癒の願いがあったのです。, 天平9年(737)、年が改まり前年に新羅に派遣した使節が京に戻りました。しかし、大使の安倍継麻呂は対馬で卒去し、副使の大伴三中は病んで入京できませんでした。天然痘に罹患したのでしょう。なお、この時の遣新羅使一行の詠んだ歌145首が『万葉集』巻十五に収められています。, 『続日本紀』の4月17日、参議で内臣の正三位藤原房前薨去の記事が見え、これを皮切りに天然痘関連の記述が続きます。19日の詔は、大宰府管内の神社に奉幣し、全国の貧疫の家に賑恤し湯薬を与えよと命じています。, 5月19日にも詔が発せられます。「四月よりこの方、疫病と旱のため農作困難となり、山川に祈祷し天神地祇を祀ったが効果がなかった。今に至るも苦しむ。朕の不徳がこの災いをもたらした。寛大な仁の心で民の患いを救いたい。冤罪者を救済し放置された屍を埋葬し、禁酒して牛馬の殺生をやめなさい。高齢者、高年で妻・夫を亡くした者、孤児、京内の病人に賑給せよ。役人に特別の給付を与える。大赦せよ」, 6月1日の百官が集合する恒例の朝は中止になりました。病に倒れる役人が多かったためです。12日には、大宰府の次官従四位下小野老が卒去します。「あおによし奈良の都は咲く花の匂うがごとくいま盛りなり」の作者です。23日は、中納言正三位多治比県守が薨去します。長屋王事件の時、兄の池守とともに藤原氏に加担して動いた人です。, 7月に入り、大倭・伊豆・若狭・伊賀・駿河・長門の飢え病める百姓に賑給しています。13日には、参議兵部卿従三位藤原麻呂が薨去。25日には、右大臣藤原武智麻呂が薨去し、正一位左大臣の追号が贈られました。, 8月になると、畿内と七道の僧侶と尼僧に清浄沐浴すること、最勝王経を読むこと、六斎日は殺生を禁ずることを命じました。5日に参議式部卿兼太宰帥の藤原宇合が薨去しました。13日に詔が出ました。「朕が君主として国を治めるようになって多くの年を経た。しかしまだ善政は行き渡らず民は安息できない。毎日、眠りにつけず憂い苦悩している。春よりこの方、疾病が猛威を振るい、百姓で死ぬ者がまことに多く、百官にも倒れる者が少なくない。朕の不徳が原因でこの災いをもたらした。天を仰ぎて恥じ恐れかしこむ。百姓を回復し救済したい。全国の今年の田租と賦役、公私の出挙稲未納分を免除する。霊験のある諸神に奉幣し、神主に賜爵せよ」。また天下太平国土安寧のため宮中に僧侶7百人を招き、大般若経・最勝王経を転読させました。新たに僧侶を度すること四百人、機内・七道は五百七十八人に上りました。, 9月には、私出挙〈民間の高利貸〉禁止令、防人の停止などの民政融和策が実施されました。藤原四兄弟と多治比県守が欠けた太政官の建て直しが図られ、長屋王の弟の鈴鹿王が知太政官事、従三位橘宿禰諸兄が大納言、正四位上多治比真人広成が中納言に昇進しました。, 注目すべきは、10月に長屋王の子弟である安宿(あすかべ)王が従四位下に昇叙、黄文(きぶみ)王が従五位下に初叙、円方(まるかた)女王・紀女王・忍海部(おしぬみべ)女王が従四位下に昇叙されたことです。長屋王事件で長屋王の責任を追及した者たち、藤原四兄弟、新田部親王、舎人親王、多治比県守がこぞって病に倒れたことと関連していると見るべきでしょう。翌年には長屋王を密告した者がかつての長屋王の従者に斬殺される事件を『続日本紀』はわざわざ取り上げ、あれは「誣告」であると述べます。冤罪であることは藤原四兄弟存命中にすでに公然の秘密であり、彼らが亡くなって公然化されたのでしょうか。子弟の一斉の昇叙は長屋王の名誉回復の一環でしょうが、そこに聖武天皇と光明皇后の贖罪意識を感じます。, 怨霊信仰が確立するのは10世紀初頭の菅原道真の大宰府左遷後に頻発した災難以降ですが、すでに桓武天皇も怨霊に悩まされていました。天平の天然痘大流行は、後世の怨霊観念からすれば長屋王の怨霊に原因が求められても不思議ではありません。奈良時代はまじないや呪いをかけたりすることが普通に行われていましたから、長屋王の呪いを意識することは当然あったと思います。平安初期に成立した日本最古の仏教説話集 『日本霊異記』には、長屋王のエピソードが出てきます。聖武天皇は長屋王の屍を焼き捨て川に流した.骨は土佐国に流れて、その国の百姓は死ぬ者が多い。そこで百姓が官に訴えたところ、都から離れた紀伊国の島へ葬った。長屋王の祟る風評が庶民の間で広まっていたことがわかります。, 疫病の流行に当時の政府が採用した対策は、まずは神仏への祈願でした。貧窮者や病者への賑給、賑恤と呼ばれる給付、税金の免除、大赦などが幾たびも実施されました。病への対処法を示したり湯薬を与えたりもしていますが、実質的な効果はほとんどなかったでしょう。天然痘の致死率は20~50%であり、当時の人口の七分の一が亡くなったという推測があります。, 聖武天皇の詔には繰り返し「自らの不徳が災いをもたらした」という文言が出てきます。律令制を導入したばかりの時期で、「天子の徳が高ければ、天はそれを愛でて国はよく治まり富と平安が民にもたらされる」という中国の天子思想も輸入され、聖武は帝王教育でそれに感化されていたでしょう。政府が打ち出す施策は、天皇の徳を表すものとして行われました。天平9年の12月に「大倭国」が「大養徳国」と改名されたのも、このような事情からです。, この時代の天皇は後世のようなシンボル的な存在に限定されず、実権が伴っていました。不徳を自責する裏には全能感がみなぎっています。しかし現実は、疾病が蔓延し旱や風水害・地震が多発し、民はあらゆる苦しみをなめました。これに対し天皇は無力でした。天子の資格が常に問われる状況にあったのです。全能感と無力感、さらに長屋王を罪なく抹殺した罪悪感がうずまき、日夜、安寧な心境からはほど遠かったはずです。, いわゆるアイデンティティの危機に天皇は直面しました。この時の救いとなったのが仏教です。仏教に深く帰依することで傷ついた徳を取り戻し補強しようとしたのです。聖武天皇と光明皇后はもともと仏教への篤い信仰がありましたが、天然痘の流行以後はますます傾倒するようになります。, 天平12年(740)10月、聖武天皇は東国行幸を敢行し、恭仁京を新都に定めます。聖武の胸中には大仏建立と仏教による国家経営のプラン(ロマン?)があり、それを実行すべく一歩を踏み出したのです。しかし現実の政治はこれを機に混迷を深めていきます。天平15年(743)10月、大仏建立の詔が出ました。それは聖武の自信に満ちたものでした。天皇の徳は大仏のスケールに比例して巨大となり、そこからあふれ出て国と民をうるおすはずだったからです。それは聖武の脳に宿った夢、あるいは誇大妄想であったのですが、国を挙げて大仏の建立に奉仕しました。そして1300年間、ふたつとないシンボルであり続け、奈良の歴史そのものになったのです。現代の我々も聖武の妄想に取り込まれているのではないかとふと思うことがあります。その妄想、あるいは夢を生むきっかけとなったのが天平の天然痘大流行だったのです。, 参考文献『新日本古典文学大系 続日本紀2』岩波書店渡辺晃宏著『日本の歴史4平城京と木簡の世紀』講談社渡辺晃宏著『平城京1300年「全検証」奈良の都を木簡から読み解く』柏書房板橋倫行校注『日本霊異記』角川文庫, awonitanさんは、はてなブログを使っています。あなたもはてなブログをはじめてみませんか?, Powered by Hatena Blog  ▲耳の長さ:2.5メートル 桓武天皇 ・・・ 律令政治の立て直し ¯nşrıóÂE�ƒ�¼ûùæüñ›×o_Œ‘�noßœßuıË/sPæ {÷†*n­C.”ÎÖãóïo_¼ı´œÿùú§—øÇõÙŸşqÚ€>ÁúU´Š‹áC›4eQ›|ÒÕ¸,¾RE�ôìÙ,{On_¿“|à@¾Z³¨‰ª¿ªß’huÑ&ªq>ÊÓÀg# ]\¼~óã‹W7› }Šàş=©‰nÏC´‰Nܹ'ŸbÄm{Ò**yIò’ä%ÉK’—%/K^–aP„wéIÅ_ůĞr‡�Tü¦ñ®ñ®ñ®ñÊn̓vñõí~êå¶.

 ▲顔の長さ:5.3メートル 2019/6/27 奈良時代の生活・政治・仏教のまとめでは奈良時代の生活(食事や服装など)や奈良時代に活躍した政治家・天皇、仏教にかかわる政策などわかりやすく紹介しています。, 2019/6/27 ブログを報告する. Copyright © 小学校の歴史クイズ|キッズマングローブ All Rights Reserved. 聖武しょうむ天皇は724年に即位そくい(天皇になること)しますが、まずはそれより以前いぜんのお話から・・・。, 694年に持統じとう天皇がつくった藤原京ふじわらきょう(奈良)、710年に元明げんめい天皇がつくった平城京へいじょうきょう(奈良)は、唐とう(中国)の都をならってつくられました。, >それまで都は、天皇が変わるとよく場所を変えていました。平城京は天皇が変わってもそのまま使えるようにしてあるのが特徴とくちょうです。, >710年に都が平城京になってから、794年に平安京へいあんきょうになるまでの間を奈良時代ならじだいとよびます。, 奈良時代、貴族きぞくがはなやかな暮くらしをしていましたが、農民など一般の人の生活は貧まずしかったようです。, >8世紀後半(700年代の後半)につくられた日本最初の和歌集わかしゅう「万葉集まんようしゅう」には、山上憶良やまのうえのおくらがつくった「貧窮問答歌ひんきゅうもんどうか」など、農民や下の位の兵士の苦しい生活の様子がうたわれています。, それまでの公地公民こうちこうみんの制度では、重い税ぜいを納おさめれない農民が逃げ出したり、人口が増えて口分田くぶんでん(田んぼ)としてあたえる土地が不足してきました。, そこで山や原野げんやなどの土地を開墾かいこん(切りひらいて新しく農地とする)した人には、3世代(切りひらいた人の孫まで)に限かぎりその土地をあたえることになりました。この制度を三世一身さんぜいっしんの法ほうといいます。, 724年に聖武天皇が即位しますが、このころは地方での反乱や貴族どうしの争い、日照ひでりや水害すいがいでの凶作きょうさく、伝染病でんせんびょうの流行りゅうこうなど、人々の生活はとても苦しい時代だったようです。, 聖武天皇は、このような災わざわいをおさえようと仏教ぶっきょうの力を強くたよりました。, 741年、聖武天皇は国ごとに国分寺こくぶんじを建て、平和を祈いのりました。そして国分寺のトップ(総国分寺そうこくぶんじ)として、奈良の東大寺とうだいじをつくります。, 「三世一身の法」で3世代が農地を使用し、その後に土地を国に返すしくみでは、返すころには農地が荒あれてしまいました(作物さくもつが育ちにくい土地となること)。, 聖武天皇しょうむてんのうは、自分で開墾した土地は孫の代まででなく、永久えいきゅうに使うことのできる土地と定めました。この制度を墾田永年私財法こんでんえいねんしざいほうといいます。, 752年に東大寺の大仏が完成しました。大仏は2人の人物が中心となってつくられました。, >資材(木や石などの材料)と労働力(働く人手ひとで)を集めたのが行基ぎょうき、大仏をつくる技術を担当したのが国中公麻呂くになかのきみまろです。, 東大寺の大仏はでかい!  ▲高さ  :15メートル 聖武しょうむ天皇は724年に即位そくい(天皇になること)しますが、まずはそれより以前いぜんのお話から・・・。 694年に持統じとう天皇がつくった藤原京ふじわらきょう(奈良)、710年に元明げんめい天皇がつくった平城京へいじょうきょう(奈良)は、唐とう(中国)の都をならってつくられました。 >それまで都は、天皇が変わるとよく場所を変えていました。平城京は天皇が変わってもそのまま使えるようにしてあるのが特徴とくちょうです。 >710年に都が平城京になってから、794年に平安京へ …

 ▲体重  :380トン 奈良時代(ならじだい)は、日本の歴史の時代区分の一つで、平城京(奈良・現奈良県奈良市)に都が置かれた時代で平城時代(へいじょうじだい)ともいう。元号による時代区分では天平時代とされる。日本仏教による鎮護国家を目指して天平文化が花開いた時期とされる。, 広義では、710年(和銅3年)に元明天皇によって平城京に遷都してから、794年(延暦13年)に桓武天皇によって平安京に都が遷されるまでの84年間。狭義では、同じく710年から、784年(延暦3年)に桓武天皇によって長岡京に都が移されるまでの74年間を指す。, 「奈良の都」の異名を持つ平城京に都が置かれたことから、「奈良時代」や「平城時代」という。740年から745年にかけて、聖武天皇は恭仁京(京都府木津川市)、難波京(大阪府大阪市)、紫香楽宮(滋賀県甲賀市信楽)に、それぞれ短期間であるが宮都を遷したことがある。, 平城京遷都には藤原不比等が重要な役割を果たした。平城京は、中国の都長安を模した都を造営したとされる。政治家や官僚が住民の大半を占める政治都市であった。, 平城京への遷都に先立って撰定・施行された大宝律令が、日本国内の実情に合うように多方面から変更されるなど、試行錯誤を行ない、律令国家・天皇中心の専制国家・中央集権を目指した時代であった。また、天平文化が華開いた時代でもあった。, 710年に都は平城京に遷った。この時期の律令国家は、戸籍と計帳で人民を把握すると、租・庸・調と軍役を課した。遣唐使を度々送り、唐をはじめとする大陸の文物を導入した。全国に国分寺を建て、仏教的な天平文化が栄えた。『古事記』『日本書紀』『万葉集』など現存最古の史書・文学が登場した。この時代、中央では政争が多く起こり、東北では蝦夷との戦争が絶えなかった。, 皇位は、天武天皇と持統天皇の直系子孫によって継承されることが理想とされ、天皇の神聖さを保つ観点から、近親婚が繰り返された。その結果として、天武天皇と持統天皇の直系の皇子の多くは、病弱であり、相次いで早死にした。そのような天武・持統の直系子孫による皇位継承の不安定さが、8世紀におけるさまざまな政争を呼び起こし、結果として、天武・持統の直系の断絶・自壊へとつながった。, 政治的には、710年の平城京遷都から729年の長屋王の変までを前期、藤原四兄弟の専権から764年(天平宝字8年)の藤原仲麻呂の乱までを中期、称徳天皇および道鏡の執政以降を後期に細分できる[1], 奈良時代の前半は、刑部親王らが撰述し、701年(大宝元年)に完成・施行された大宝律令が、基本法であった。, 718年(養老2年)藤原不比等らに命じて、養老律令を新たに選定した。字句の修正などが主であり、根本は大宝律令を基本としていたが、その施行は遅れ、757年(天平宝字9年)、藤原仲麻呂主導の下においてであった。, 貴族や官人の官職及び位階を改廃する権限、令外官(りょうげのかん)の設置権、官人の叙位および任用権限、五衛府(ごえふ)や軍団兵士に対するすべての指揮命令権、罪刑法定主義を原則とする律の刑罰に対して勅断権と大赦権、外国の使者や外国へ派遣する使者に対する詔勅の使用などの外交権、皇位継承の決定権などである。, 762年(天平宝字6年)頃、淡海三船は歴代天皇の漢風諡号を撰進した。これによって、天智天皇もしくは天武天皇の時代(7世紀)に創始されたと考えられる「天皇」号は、それ以前に遡って追号された。, 大宝律令の制定によって、律令制国家ができあがった。中央官制は、二官八省と弾正台と五衛府から構成されていた。地方の行政組織は、国・郡・里で統一された。里はのちに郷とされた。さらに道制として、畿内と東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道の七道に区分され、その内部は66国と壱岐嶋・対馬嶋の2嶋が配分された(令制国一覧参照)。軍団は各国に配置され、国司の管轄下におかれた。また田と民は国家のものとされる公地公民制を取り入れ、戸籍により班田が支給された。税は、租庸調と雑役から構成されていた。, 742年(天平14年)大宰府を廃止。翌年、筑紫に鎮西府を置いたが、745年(天平17年)には太宰府が復された。, 東北地方では多賀城、出羽柵等が設置され、蝦夷征討と開発、入植が進められた(既述)。, 律令国家は、高度に体系化された官僚組織を維持するため、安定した税収を必要とした。いっぽう、日本の律令に規定された班田収受の法には、開墾田のあつかいについての明確な規定がなかった[2]。そのため、長屋王を中心とする朝廷は722年(養老6年)に良田百万町歩開墾計画を立て、計画遂行を期して723年(養老7年)には田地開墾を促進する三世一身法(さんぜいっしんのほう)を施行した。この法では、新しく灌漑施設をつくって開墾した者は三代のあいだ、もとからある池溝を利用した者は本人一代にかぎり、墾田の保有を認めた。, 農民の墾田意欲は必ずしも向上せず、墾田も思いのほか進まなかったため、743年(天平15年)、橘諸兄政権はさらなる墾田促進を目的とした墾田永年私財法を施行した。これは、国司に申請して開墾の許可を得て、一定期間内に開墾すれば、一定限度内で田地の永久私有をみとめるものであった。, 両法令は公地公民制の基盤を覆す性格をもったことは確かだが、動機としては班田(口分田)を確保することによって律令体制の立て直しを図ったものであったことも事実である。開墾をおこなう資力にめぐまれた貴族や豪族、寺社の土地所有は以後増加の一途をたどった。とくに大貴族や大寺院は、広大な土地を囲い込み、一般の農民や浮浪人を使役して私有地を広げた。これが荘園の起こりであるが、租税義務のともなう輸租田を主とするものであり、初期荘園(墾田地系荘園)と呼ばれる。, 元明天皇即位の翌年にあたる708年(慶雲5年)正月、武蔵国が自然銅を献上したのを機に「和銅」と改元され、翌2月には、貨幣の鋳造と都城の建設が開始された。2月11日、鋳銭をつかさどる催鋳銭司がおかれ、2月15日、平城遷都の詔が出された。, 「平城遷都の詔」によれば、新都は「方今、平城之地、四禽叶図…」とあり、「四神相応の地」が選ばれた。藤原京は、南から北にかけて傾斜する地形の上に立地し、藤原宮のある地点が群臣の居住する地より低く、臣下に見下ろされる場所にあったのが忌避されたとみなされることもあり、また現実問題として排水が悪いなどの難点ともなった。しかしそれだけではなく、藤原京は唐との交流が途絶えた時期に造られたため、古い書物(『周礼』)に基づいた設計を行ったと考えられ、当時の中国の都城と比しても類例のないものとなっていた。実際には、30数年ぶりに帰国した遣唐使の粟田真人が朝政にくわわってこれらの問題が明らかになり、また唐の文化や国力、首都長安の偉容や繁栄などを報告したことが、藤原京と長安との差がかけ離れていることを自覚することとなって、遷都を決めた要因となったと考えられるのだ[3]。その根底には、壮麗な都を建設することが、外国使節や蝦夷・隼人などの辺境民、そして地方豪族や民衆に対して天皇の徳を示すことに他ならず、国内的には中央集権的な支配を確立するとともに、東夷の小「中華帝国」を目指したものに他ならなかった[4]。9月、元明天皇はみずから平城の地を視察し、造平城京司の長官ら17名を任命、10月には伊勢神宮に勅使を派遣して新都造営を告げ、11月、平城宮予定地のため移転させられる民家に穀物、布を支給、12月には地鎮祭を行い、造営工事を開始した。, この年(和銅元年)、遷都を主導した藤原不比等は正二位、右大臣に進み、不比等の後妻、県犬養三千代は女帝の大嘗祭において杯に浮かぶタチバナとともに「橘宿禰」の姓を賜った。地名や職掌にかかわる名が一般的ななかで植物の名を氏名とするのは稀有なことであり、彼女の生んだ皇子たちは橘を名のって、橘氏の実質上の祖となった。なお、これにより橘諸兄と改名した葛城王と、のちに皇后となる光明子(光明皇后)とは、三千代を母とする異父同母の兄妹にあたる。, 平城京の造営工事はきわめて短期間のうちに遂行された。工事着工後の1年4か月後の和銅3年(710年)3月には平城遷都が決行されたが、このように急ピッチでの遷都が可能であったのは、寺院も含めて建物の多くが藤原京からの移築だったことによる。近年の知見では新都平城京の規模は旧都藤原京とほぼ変わらず、むしろ藤原京のほうが広いぐらい[5]であり、長安城に比較すれば4分の1程度にすぎなかった。平城京の特色としては「外京」という左京からの張り出し部分を設けたことで、完全な矩形ではないことである。「外京」はむしろ今日の奈良市の中心街となっている。平城京に所在する建物は、唐風建築のみならず、掘立柱で板敷の高床建築で屋根は檜皮葺という前代よりの伝統的な日本風建築も多かった。, 都城の造営は短期間にすすめられたが、貨幣の鋳造のスピードもはやかった。708年2月に催鋳銭司がおかれ、同年5月にははやくも和同開珎の銀銭、同じく8月には銅銭が発行されている。銀銭の発行が早かったのは、秤量貨幣としての銀の通用の伝統があったためとみられる[2]。, 平城京が持統天皇期の藤原京の発展形であったのと同様、和同開珎もまた富本銭の発展形であり、また唐の銭貨にならったものであった。銭貨は新都の造営にやとわれた人びとへの支給銭など宮都造営費用の支払いに利用され、政府はさらにその流通をめざして和銅4年(711年)10月に一定量の銭を蓄えた者に位階を与えるとする蓄銭叙位令を発したものの、京・畿内を中心とした地域の外では、稲や布などを物品貨幣とする交易が広くおこなわれていた。蓄銭叙位令は一種の売官制であり、かえって貨幣の死蔵がすすみ、円滑な貨幣交換がさまたげられることがあった。政府は、こののちも銅銭の鋳造をつづけ、10世紀の乾元大宝まで12回にわたり国家的に銭貨の鋳造はおこなわれた。これを、皇朝十二銭という。, 一方で、私鋳銭禁止令が和同開珎鋳造と同じ和銅元年(708年)に出されている。役人が位階獲得を目的に私鋳銭を製造しないよう、私鋳銭製造に対しては官位剥奪、「斬」(首を切る極刑)の罰が加えられた。, この時代の初め、中臣鎌足の息子藤原不比等があらわれて政権をにぎり、律令制度の確立に力を尽くすとともに、皇室に接近して藤原氏発展の基礎をかためた。不比等死後に政権を担当したのは、高市皇子の子で天武天皇の孫にあたる長屋王であった。彼は右大臣に昇って権勢を誇ったが、その前後から負担に苦しむ農民の浮浪や逃亡がふえ、社会不安が表面化したため、政府は財源確保のため723年(養老7年)には、三世一身法を施行して開墾を奨励した。不比等の娘藤原宮子を母とする聖武天皇が724年(神亀元年)に即位したころから、不比等の子武智麻呂、房前、宇合、麻呂の藤原四兄弟が政界に進出した。729年(神亀6年)、左大臣にのぼった長屋王に対し藤原四兄弟は「左道によって国家(天皇)を傾ける(殺す)」と讒訴して、自殺に追いこみ(長屋王の変)、政権を手にした。変の直後、藤原氏は不比等の娘光明子を、臣下で最初の皇后(光明皇后)に立てることに成功した。, その藤原四兄弟が737年(天平9年)に天然痘の流行で相次いで死亡すると、皇族出身の橘諸兄が下道真備(のちの吉備真備)や僧玄昉を参画させて政権を担った。これを不満とした宇合の長男藤原広嗣は、740年(天平12年)、真備らを除くことを名目に、九州で挙兵したが、敗死した(藤原広嗣の乱)。この反乱による中央の動揺ははなはだしく、聖武天皇は、山背の恭仁、摂津の難波、近江の紫香楽と転々と都をうつした。相次ぐ遷都による造営工事もあって人心はさらに動揺し、そのうえ疫病や天災もつづいたので社会不安はいっそう高まった。かねてより厚く仏教を信仰していた聖武天皇は鎮護国家の思想により、社会の動揺をしずめようと考え、741年(天平13年)に国分寺建立の詔、743年(天平15年)には盧舎那大仏造立の詔を発した。これにより東大寺大仏がつくられ、752年(天平勝宝4年)に完成、女帝孝謙天皇・聖武太上天皇臨席のもと、盛大な開眼供養がおこなわれた。, この間に光明皇后の信任を得た藤原南家の藤原仲麻呂(武智麻呂の子)が台頭、紫微中台を組織して755年(天平勝宝7年)には橘諸兄から実権を奪い、757年(天平宝字元年)には諸兄の子橘奈良麻呂も排除した(橘奈良麻呂の乱)。仲麻呂は独裁的な権力を手中に、傀儡(かいらい)として淳仁天皇を擁立。みずからを唐風に恵美押勝と改名すると、儒教を基本とする中国風の政治を推進したが、今度は孝謙上皇の寵愛を得た僧道鏡が頭角を現す。押勝はこれを除くために764年(天平宝字8年)に反乱を起こして敗死した(藤原仲麻呂の乱)。これにより、淳仁天皇は廃され、淡路に流された。, 道鏡は、やがて765年(天平神護元年)には太政大臣禅師、翌766年(天平神護2年)には法王となって、一族や腹心の僧を高官に登用して権勢をふるい、西大寺の造立や百万塔の造立など、仏教による政権安定をはかろうとした。称徳天皇(孝謙上皇が復位)と道鏡は宇佐八幡宮に神託がくだったとして、道鏡を皇位継承者に擁立しようとしたが、藤原百川や和気清麻呂に阻まれ、770年(宝亀元年)の称徳天皇の没後に失脚した(宇佐八幡宮神託事件)。光仁天皇を擁立した藤原北家の藤原永手や藤原式家の藤原良継・百川らが躍進した。光仁天皇はこれまでの天武天皇の血統ではなく、天智天皇の子孫であった。光仁天皇は、官人の人員を削減するなど財政緊縮につとめ、国司や郡司の監督をきびしくして、地方政治の粛正をはかった。しかし、780年(宝亀11年)では陸奥国で伊治呰麻呂の反乱がおきるなど、東北地方では蝦夷の抵抗が強まった。, 784年(延暦3年)強まってきた寺社勢力からの脱却のため、桓武天皇が山背国長岡の地に新たな都(長岡京)を造成したが、工事責任者の藤原種継が暗殺され、桓武天皇の弟早良親王が捕まる事態となって、794年(延暦13年)新しい都城を造成し、山背国を山城国と改め、新京を平安京と名づけて遷都した。この遷都をもって、奈良時代と呼称される時代は完全に終焉を遂げ、平安時代がはじまる。, 政府は、学生や僧を唐へ留学させ、さまざまな文物を取り入れた。また、朝鮮半島との交流も盛んであった。これらの交易物などは、正倉院宝物でも、その一端をうかがい知ることができる。716年(霊亀2)には阿倍仲麻呂(唐で客死)・吉備真備・僧玄昉ら唐に留学した。彼らは、当時の列島にさまざまな文化をもちこんだ。, 712年(和銅5年)にできたとされる『古事記』は、宮廷に伝わる「帝紀」「旧辞」をもとに天武天皇が稗田阿礼によみならわせた内容を、元明天皇の時に太安万侶が筆録したものである。神話・伝承から推古天皇にいたるまでの物語であり、多くの歌謡を収載している。口頭の日本語を漢字の音・訓を用いて表記されている。, それに対し、714年(和銅7年)に紀清人・三宅藤麻呂に国史を撰集させ、舎人親王が中心となって神代から持統天皇までの歴史を編集、720年(養老4年)に撰上されたのが『日本紀(日本書紀)』30巻・系図1巻である。これは、中国の歴史書の体裁にならったもので、漢文の編年体で記されている。こののち、『日本三代実録』まで漢文正史が編まれて「六国史」と総称されるが、『日本書紀』はその嚆矢となったものである。, また、政府は713年(和銅3年)には諸国に「風土記」の編纂を命じた。これは、郷土の産物や山や川などの自然、あるいはその由来、古老の言い伝えなどを収めた地誌である。『出雲国風土記』がほぼ完全に伝存するほか、常陸国、播磨国、豊後国、肥前国の風土記のそれぞれ一部が伝えられている。これは、古代の地方の様相を示す貴重な文献資料になっている。, 文芸の面では、751年(天平勝宝3年)に現存最古の漢詩集『懐風藻』が編集され、大友皇子、大津皇子、文武天皇、長屋王などの作品を含む7世紀後半以降の漢詩をおさめている。奈良時代中期を代表する漢詩文の文人としては淡海三船と石上宅嗣が著名であり、いずれかが『懐風藻』の編集にたずさわったであろうと推定されるが、確実な証拠はない。, 和歌の世界でも、和銅年間から天平年間にかけて山上憶良、山部赤人、大伴家持、大伴坂上郎女らの歌人があいついであらわれた。『万葉集』は759年(天平宝字3年)までの歌約4500首を収録した歌集で、雄略天皇の歌が巻頭をかざっている。舒明天皇・推古天皇以降の飛鳥時代、奈良時代の和歌が収められ、著名な歌人や宮廷人の作品ばかりではなく、東歌や防人歌など、地方の農民の素朴な感情をあらわした作品も多く収められており、このなかには心に訴える優れた歌が多くみられる。漢字の音と訓をたくみに組み合わせて日本語を記す万葉仮名が用いられていることも大きな特徴である。, 奈良時代の日本仏教は、鎮護国家の思想とあいまって国家の保護下に置かれていよいよ発展し、国を守るための法会や祈祷がさかんにおこなわれた。政府は平城京内に大寺院をたて、聖武天皇は、741年(天平13)に全国に詔して、国分僧寺や尼寺を全国に建てさせ、また良弁を開山の師として東大寺の造営をおこない、743年(天平15)には、廬舎那仏金銅像(大仏)の造立を発願し、国家の安泰を願った。大仏の造立は、紫香楽宮で始まった。752年(天平勝宝4)には、出家し、退位した聖武太上天皇・光明皇太后・聖武の娘である孝謙天皇らが、東大寺に行幸し、大仏の開眼供養を行った。さらに孝謙天皇が重祚した称徳天皇は西大寺を建立した。, 僧侶は南都七大寺(大安寺、薬師寺、元興寺、興福寺、東大寺、西大寺、法隆寺)などの寺において仏教の教理を研究。南都六宗(三論宗、成実宗、法相宗、倶舎宗、華厳宗、律宗)という学派が形成された。大規模な写経もおこなわれており、特に光明皇后発願の一切経の写経事業は、大仏造立や国分寺造営とならぶ大事業であった。, 仏教の発展は、遣唐使にしたがって留学した道慈(三論宗)や玄昉(法相宗)ら学問僧たちの努力によるところが大きいが、754年(天平勝宝6年)1月に6度目の航海のすえに平城京に到着して、戒律や多数の経典[6]を伝えた唐出身の鑑真和上、大仏開眼供養の導師となったインド出身の菩提僊那、菩提僊那と同時に来日したチャンパ王国(林邑)出身の僧仏哲、唐僧道璿、また、多くの新羅僧ら外国出身の僧侶の活動に負うところも大きかった。, 朝廷は国教として仏教を保護するいっぽう、「僧尼令」などの法令によってきびしく統制し、僧侶になる手続きや資格をさだめて仏教の民間布教に制限を加えた。行基のように禁令にそむいて民間への布教をおこない、弾圧されたものの灌漑設備や布施屋の設置、道路建設などの社会事業に尽力すると、民衆の支持を集める僧侶もあった。行基は結局、その人気に注目した政府によって登用され、大仏建立に尽力したことで大僧正の僧位を得た。, 他に社会事業をおこなった人物としては、行基の師で宇治橋をつくったといわれる道昭(法相宗の開祖)、貧窮した民衆を救済するための悲田院・施薬院を設けた光明皇后、多数の孤児を養育した和気広虫などがいる。, 618年、隋に代わって中国を統一した唐は大帝国を築き、東アジアに広大な領域を支配して周辺諸地域に大きな影響をあたえた。西アジアや中央アジアなどとの交流も活発であり、首都長安は国際都市として繁栄した。玄宗の治世前半は「開元の治」と称された。周辺諸国も唐と通交して漢字・儒教・漢訳仏教などの諸文化を共有して、東アジア文化圏が形成された。, その中にあって日本の律令国家体制では、天皇は中国の皇帝と並ぶものであり、唐と同様、日本を中華とする帝国構造を有していた。それは国家の統治権が及ぶ範囲を「化内」、それが及ばない外部を「化外」と区別すると、さらに化外を区分して唐を「隣国」、朝鮮諸国(この時代には新羅と渤海)を「諸蕃」、蝦夷・隼人・南島人を「夷狄」と規定する「東夷の小帝国」と呼ぶべきものであった[7][8]。律令に規定後、それを自負したり目指したことと、とりわけ唐や朝鮮諸国との関係に実態がともなったかどうかは別の問題である。, 630年の犬上御田鍬にはじまる日本からの遣唐使は、奈良時代にはほぼ20年に1度の頻度で派遣された。大使をはじめとする遣唐使には、留学生や学問僧なども加わり、多いときには約500人におよぶ人びとが4隻の船に乗って渡海した。日本は唐の冊封は受けなかったものの、実質的には唐に臣従する朝貢国の扱いであった[2]。使者は正月の朝賀に参列すると、皇帝を祝賀した。当時の造船術や航海術はなお未熟な点も多く、海上での遭難も少なくなかった。危険を冒して遣唐使たちは、多くの書籍やあるいはすぐれた織物や銀器・陶器・楽器などを数多く持ち帰り、また、唐の先進的な政治制度や国際色豊富な文化を持ち帰り、当時の日本に多大な影響をあたえた。中でも知識に対する貪欲さはすさまじく、皇帝から下賜された品々を売り払って、その代価ですべて書籍を購入して積み帰ったと唐の正史に記されるほどであった[9]。文物だけでなく、知識を身につけた留学生や留学僧も日本に戻って指導的な役割を果たしている。とくに、帰国した吉備真備や玄昉は、後に聖武天皇に重用され、政治の世界でも活躍した。, 白村江の戦いののち朝鮮半島を統一した新羅との間にも多くの使節が往来した。ところが、7世紀末から8世紀代の日本は(唐を「隣国」、新羅・渤海を「蕃国」とする)律令体制を築く過程で、中華意識を高めており、新羅を「蕃国」として位置づけ、従属国として扱おうとしたため、度々衝突が起きた(田村圓澄)。これにより、遣唐使のルートも幾度か変更されている。新羅は、半島統一を巡って唐と戦争中であり、背後の日本が唐側に着かないように唐を牽制するため[10]使節を送り続けていた。唐と交戦している状況であったため8世紀初頭までは日本側の朝貢形式を容認していた[11]が、渤海の成立後に唐との関係が好転した新羅は、朝貢してまで日本との関係を維持する必要がなくなったため、対等外交を主張するようになった。日本はこれを認めなかった。両国の関係悪化が具体化すると、新羅は日本の侵攻に備えて築城(723年、毛伐郡城)する。日本でも一時軍備強化のため節度使が置かれた[12]。737年には新羅征討が議論に上った。この時期に日本では天然痘が大流行しており、政治の中心人物であった藤原武智麻呂をはじめとする藤原四兄弟、高位貴族が相次いで没して政治を行える人材が激減、国内が混乱に陥ったため、現実のものとはならなかった。