戦国武将の生き様にしびれているよよちち です★ ... ということで、今回は 本当の最強武将島津義弘の感動と衝撃のエピソード ... 2020/09/27. (岡谷繁実著『名将言行録』より一部抜粋), 毛利元就の何がスゴいか。

伊達政宗は、徳川幕府が家光の代で磐石となるのに、大きな役割を果たしました。 戦国時代が繰り返されれば、さらに多数の犠牲者が出ただろうことを思うと、「戦うために生まれてきたような人」が、多くの命を救ったと言えるのかもしれないと思うのです。 先日、息子が彼女にプロポーズして、相手両親に挨拶に行きました。彼女は一人娘で、彼女の父親から、氏名だけでも彼女の姓を名乗ってもらえないかと言われたと息子より相談の連絡がありました。まだしっかりと話はしていないので、息子の考えや彼女の考えもわかりませんが、いずれこのような相談があるだろうと私自身前... ホットペッパーのGotoイート終了予告が出ましたが、今から今月の残り日数全てに予約を入れてもポイントは入りますか?ほぼ毎日キャンペーンを利用しているのですが、先ほど予約受付の終了予告が出ました。 しびれる武将はたくさんいますが、この人「島津義弘」もしびれまくりの武将の一人です, 豊臣秀吉は日本を平定したから、「次は海外だ!」という名目で朝鮮に出兵することにしました。, でも本当の目的は各地の大名たちの勢力を衰えさせる作戦だったのではないか、と思います。, 日本を自分の思い通りにしたい秀吉は、各地の大名の力が大きくなりすぎるのが怖かったんじゃないか。, それで、朝鮮出兵を言い出して、過酷な戦をさせることで、自分以外の勢力を小さくしてしまえ、という目的があったのではないか、と。, この戦では、戦死者のほかに、凍死、餓死者がとても多かったのですが、島津軍からはほとんど出なかった。, 島津軍は強い絆で結ばれていて、兵の士気が下がることはなく強く生き抜くことができました。, 戦場でも義弘軍は敵将を打ち取ったり、ほかの家の軍隊と一緒に挟み撃ちして水軍を撤退させたりと、大活躍でした。, ただ、刀を持って戦うだけが「戦」ではなくて、兵を大事にして守っていかなければ強い軍にはなりません。, しかし甥の豊久が、「ダメです!義弘殿が生きている限り島津家は続きます!生きて帰ってください!」と言います。(豊久は、義弘のことを父親のように思い、尊敬し慕っていました), この関ケ原の戦いの島津軍は義弘と一緒に戦いたいと、志願して集まった兵たちで作られた軍でした。, (兄の義久はこの戦に参加しない、という意向だった。しかし、今回の兵たちは、義弘が行くなら!力になりたい!とついてきた人達だったのです), ですので、「絶対に義弘を生きて九州の家に帰すぞ!」という強い強い団結力が生まれました。, しかし、そこには、徳川四天王の本田忠勝もいるし、赤鬼と恐れられている井伊直政の無敵の赤備えの部隊がいる!, これは、1つのかたまりが全滅するまで戦い、それがまた全滅したら次のかたまりが戦う。, 兵たちが命がけで盾となって前を守って進んでいくという、相当な信頼関係がないとできない作戦です。, とても壮絶な戦いでした。なんとか敵軍を離しますが、最後までしつこく追いかけ続けたのが、敵軍のあの赤鬼井伊直政。こわっ。, 東軍(徳川軍)にも犠牲者がでて、壮絶な激戦を見た家康は「もう深追いするな」と撤退の指示を出します。, 島津軍は、退陣するときは、300人いたけれど生き残ったのは80人ほどだったそうです。, そして、たまたま居合わせた立花宗茂と船に乗ることができて、九州に帰ることができました。, 「島津の退き口」が成功した理由は、「義弘の日ごろの行い」じゃないかな、と思います。, 家臣たちが、盾となって戦い、義弘のために死んでいくことになんの躊躇もなかったのですから。。。, 義弘は激戦をした井伊直政(徳川四天王)にお話しに行って仲直り。井伊直政は家康に「島津家のこと許してやってくださいよ」と言ってもらいました。ほかにも、家康のマブダチなどにも接触して、お願いしました。, 弟義弘が、交渉というか根回しをキチンとしておくことで、当主である兄の義久は、家康に対しても強気で交渉ができたのです。, それと、島津家は、そもそも関ケ原の戦いには兵をほとんど出していませんので(兄の義久は関ケ原の戦いに参加したくなかったから)、軍事力もしっかりと整っていました。, こうした理由から、「絶対領地あげないよ」「戦えるものならかかってこんかい」くらいの勢いで、島津家は、九州の領地を守り抜くことができました。, 義弘が死んだとき、「殉死禁止令」が出ていたにも関わらず、13人もの家臣が殉死した。, その後も、九州(薩摩)の島津家一族は代々受け継がれて、江戸も生き抜いて倒幕を成し遂げました。, 秀吉の内部崩壊を狙った策略にも耐え、関ケ原の戦いでは、家康に強気な姿勢で立ち向かい、領地を取られることもなく、九州を治めていきました。, ちなみに、2014年に、大河ドラマで島津義弘をやる予定だったのですが、黒田官兵衛に変更になりました。, 華々しい戦シーンもあり、人間ドラマもある素晴らしいドラマになりそうな気がするなー。, -歴女への道 『戦国武将に学ぶ究極のマネジメント』 二木謙一著 中央公論新社 2019年2月, 観光バスがドリフトレース!?東急・小田急VS西武の「箱根山」おもしろ歴史エピソード, すぐれたインフルエンサー?!

慎重であったことは事実ですが、一方で彼はとても好奇心旺盛で活動的な人物だったようです。関ヶ原の戦いには南蛮胴具足を着用したり、南蛮時計や砂時計を愛用したりと当時としては、かなりの新しいもの好きでした。, 70代を越え隠居してからも、南蛮世界図屏風を見ながら異国の国々の話をしていたという記録も残っています。, ある時、鷹狩りに出かけた場所で、初めて知った天ぷらを、好奇心旺盛な家康はさっそく作らせ、食べました。天ぷらといっても現代の天ぷらとは少し違っていて、タイのすり身を油で揚げたさつま揚げのようなものだったようです。, その時に食べた天ぷらがもとで腹痛が始まり、一晩経っても腹痛はおさまらず、駿府に帰って療養しますが一向に良くならず、75歳で亡くなったとのことです。, 油は当時大変貴重な物でしたから、将軍職にあった家康といえども普段食べ慣れていなかったのと、高齢でもあったため消化不良を起こし、それが死因につながったと考えられています。, 徳川家康が天ぷらを食べて体調をおかしくしてしまったのは事実のようですが、どうもそれが直接の死因ではないという説があります。, 本当の死因はガンであった可能性が高いようです。家康が天ぷらを食べてから、亡くなるまでに三か月ほどの月日が流れています。食あたりが直接の原因だとすると、亡くなるまでの期間があまりにも長すぎるのです。, 家康のそばにはいつも医者が従えていたようですが、この時の医者の診察によると家康の腹の中にしこりがあったとのこと。医者は家康にいろいろと治療にあたっての進言をしましたが、家康は主治医の言う事に耳を貸さず、自己流の治療を試みていたようです。, 家康はもともと健康オタク。若い時から身体を鍛え、医薬にも強い関心があり自分自身で薬も調合していました。そのような家康ですから、主治医の判断よりも自分の判断を優先させてしまったのかも知れません。, 現代でもこういう人いますよね。なまじ知識があるゆえに専門家の意見に耳を貸さない人。変に頑固にはなりたくないものですね。, 当時、家康が使ったと考えられている薬はトリカブトの根が主剤だったようです。トリカブトは猛毒で知られています。毒と薬は紙一重と言いますが、もちろん多量に使えば死に至りますが、適量を用いれば妙薬になると考え用いていたようです。, 結局家康は、亡くなるまで主治医のいうことには耳をかさず、自分で調合した薬を飲み続けました。, 症状が悪化するにつれて痩せて顔色が悪くなり、つねに吐き気を催していたことや、主治医が触診したときに腹部にしこりがあったことなどから考えると、症状的には消化器系のがんで、もうその時には末期であった可能性があります。, 秀忠や水戸光圀も消化器がんで亡くなっているとの説が有力なので、徳川家はある意味がん家系であり、家康もがんで亡くなってしまったのかもしれませんね。.