・家によって頭打ちが決まっていた 195 件中 41 - 60 件目. 今、戦国時代などの日本史について調べています。歴史は苦手で最近調べ始めたばかりなのでまだまだ分からない事だらけですがよろしくお願いします。身分は将軍<大名<武将って感じであってますか?大名の部下にあたる役職はなんですか?武

諸(もろ)ともに 如露亦如電(にょろやくにょでん) 応作如是観(おうさにょぜかん)」と伝わる。, 義隆の実子の大内義尊も、9月2日に陶軍に捕らえられ殺害された。義隆・義尊の死により、周防大内氏は事実上滅亡した[注釈 2]。 周防国の在庁官人・大内氏の第16代当主[1] 。第15代当主・大内義興の嫡男。母は正室の内藤弘矩の娘。周防・長門・石見・安芸・豊前・筑前の守護を務めた。官位は従二位兵部卿兼大宰大弐兼侍従。また義隆の時代には大内文化が爛熟し、西国の地方政権大内政権を築いて大内家は領土的に全盛期を迎えたが、文治政治に不満を抱いた一族でもある家臣の陶隆房に謀反を起こされ、義隆と一族は自害して、大内家は事実上滅亡した。, 永正4年(1507年)11月15日、周防・長門・石見・豊前4か国の太守である大内氏の第15代当主・大内義興の嫡子として大内氏館で生まれる[2]。母は長門守護代の内藤弘矩の娘である[3][4]。, 幼名は亀童丸(きどうまる)と言うが、これは父や祖父の政弘ら歴代当主の名乗った幼名であり、義隆は幼少時から嫡子としての地位を明確にされ、同時に大内家で歴代に渡り家督相続時に発生した内紛を予防するために名乗らされていた。義隆は幼児期は乳母や多くの女に囲まれて成長した。少年期になると介殿様と呼ばれたが、これは周防介の略であり、大内家当主の地位として世襲されたものであり、義隆が嫡子として扱われていた証左である[5]。なお、義隆が周防介になった年は明確ではないが、永正17年(1520年)の時点で義隆を介殿様と記している事から[6]、この頃に従五位下・周防介に叙任されたと考えられている[7]。また、その前後に将軍・足利義晴から偏諱を受けて元服し、義隆[注釈 1]と名乗っている[7]。, 元服後の大永2年(1522年)から父に従い、大永4年(1524年)には父に従って安芸国に出陣する。この時は5月に別働隊を率いて岩国永興寺へ、6月に厳島へ入り、7月に重臣の陶興房とともに安芸武田氏の佐東銀山城を攻めた。しかし8月に尼子方として救援に赴いた毛利元就に敗退する。また山陰の尼子氏とも干戈を交えた[7][8]。この頃に京都の公卿・万里小路秀房の娘・貞子を正室に迎えた[7]。この最中の大永3年(1523年)に寧波の乱が勃発しており、その後大内氏は東シナ海の貿易を独占している。, 享禄元年(1528年)12月に父が死去したため、義隆は22歳で家督を相続する[5]。大内家では家督相続の際に一族家臣の間での内訌が起こることが常態化していたが、義隆相続の際には起こっていない。これは義隆の弟・弘興の早世による親族の欠如と、重臣の陶興房の補佐によるところが大きいとされている[9]。, 享禄2年(1529年)12月23日に従五位上に叙され[5]、享禄3年(1530年)10月9日に父祖と同じ左京大夫に任命された。, 享禄3年(1530年)からは九州に出兵し、北九州の覇権を豊後国の大友氏や筑前国の少弐氏らと争う。家臣の杉興運や陶興房らに軍を預けて少弐氏を攻めた。そして肥前国の松浦氏を従属させ、さらに北九州沿岸を平定して大陸貿易の利権を掌握した。しかし杉興運に行なわせた少弐攻めでは、少弐氏の重臣・龍造寺家兼の反攻にあって大敗を喫した(田手畷の戦い)。, 天文元年(1532年)、大友氏が少弐氏と結んで侵攻してくると、義隆は長府に在陣し、北九州攻略の大義名分を得るために大宰大弐の官職を得ようと朝廷に働きかけるが失敗した。, 天文3年(1534年)、龍造寺家兼を調略して少弐氏から離反させ、少弐氏の弱体化を図った。また陶興房に命じて大友氏の本拠地豊後を攻略しようとするが失敗する(勢場ヶ原の戦い)。しかし、義隆は一方で北肥前にいた九州探題・渋川義長を攻め、渋川氏を滅亡に追い込んだ。, この年、後奈良天皇の即位礼に合わせて銭2千貫を朝廷に寄進し、翌年あらためて大宰大弐への叙任を申請する。天皇は一旦許可したものの、これは1日で取り消されている。, 天文5年(1536年)、ようやく大宰大弐に叙任され、北九州攻略の大義名分を得た義隆は、9月に龍造寺氏とともに肥前多久城での戦いで少弐資元を討ち滅ぼし、北九州地方の平定をほぼ完成させた。このとき龍造寺氏の本家の当主・龍造寺胤栄を肥前守護代に任じている。, 天文6年(1537年)、室町幕府第12代将軍・足利義晴から幕政に加わるよう要請を受けて上洛を試みるが、山陰を統一して南下の動きを示していた尼子氏に阻まれ、領国経営に専念するためにこれを断念した。, 天文9年(1540年)、尼子経久の孫・詮久(のちの晴久)が安芸国へ侵攻し、大内氏の従属下にあった毛利元就の居城である吉田郡山城を舞台に戦った(吉田郡山城の戦い)。義隆は陶興房の子・隆房(後の晴賢)を総大将とした援軍を送り尼子軍を撃破する。以後は尼子氏に対して攻勢に出ることになり、天文10年(1541年)には尼子方の安芸武田氏(武田信実・信重ほか)と友田氏(友田興藤)を滅ぼして安芸国を完全に勢力下に置いた。, 天文10年11月、尼子経久が死去すると、天文11年(1542年)1月に義隆自ら出雲国に遠征して尼子氏の居城月山富田城を攻囲するが、配下の国人衆の寝返りにあって晴久に大敗した(月山富田城の戦い)。しかもこの敗戦により寵愛していた養嗣子の大内晴持を失ったことを契機に領土的野心や政治的関心を失い、以後は文治派の相良武任らを重用するようになった。このため武断派の陶隆房や内藤興盛らと対立するようになる。, 天文16年(1547年)、天竜寺の策源周良を大使に任じて最後の遣明船を派遣している。, 天文17年(1548年)、龍造寺胤信と同盟する。胤信は義隆からの偏諱によって隆信と名乗った。隆信は大内氏の力を背景に隆信の家督相続に不満があった家臣たちを抑え込んだ。, 天文19年(1550年)8月、山口に来たフランシスコ・ザビエルを引見したが、ザビエルが汚れた旅装のままで面会に臨む、ろくな進物も持たない、義隆の放蕩振り・仏教の保護・当時一般的だった男色などを非難する、など礼を大いに欠いていたことから義隆は立腹し、布教の許可は下さなかった。ザビエルは畿内へ旅立った。同年、陶・内藤らが謀反を起こすという情報が流れ、義隆は一時大内軍を率いて館に立て籠もったという。このときの反乱は風評に終わる。側近の冷泉隆豊は陶ら武断派の討伐を進言したが義隆はこれを受け入れなかった。, 天文20年(1551年)4月下旬、ザビエルを再び引見する。ザビエルはそれまでの経験から、貴人との会見時には外観が重視されることを学んでおり、今回は一行を美麗な服装で飾り、珍しい文物を義隆に献上した。献上品には、本来なら天皇に捧呈すべく用意していたポルトガルのインド総督とゴア司教の親書のほか、望遠鏡・洋琴・置時計・ガラス製の水差し・鏡・眼鏡・書籍・絵画・小銃などがあったという。義隆は、ザビエルに対して布教の許可を与え、その拠点として、大道寺を与えた。, 天文20年(1551年)8月末、義隆と険悪な関係になった武断派の陶隆房(周防国守護代)が謀反の兵を挙げた。重臣の内藤興盛(長門国守護代)もこれを黙認し、義隆を救援することはなかった。, 義隆は親族である津和野の吉見正頼を頼ろうとしたが暴風雨のために身動きがとれず、長門深川の大寧寺までたどり着くとそこに立て籠もった。義隆に従った重臣・冷泉隆豊の奮戦ぶりが目覚しかったが、所詮は多勢に無勢で、9月1日の10時頃に義隆は隆豊の介錯で自害した。享年45[1]。辞世は「討つ者も 討たるる者も ⑫正五位下 戦国の大名・武将285名を一挙紹介。生年月日順や生涯年齢順など並び替え自由。(近く実装) 特に人気のある戦国大名・武将.

清洲会議での四宿老のひとり(ほか、柴田勝家、丹... 幼名は古新、照政。通称は三左衛門、岐阜侍従、吉田侍従、播磨宰相、姫路宰相。おもな官位は武蔵守・... 幼名は弥九郎。別名は如信。おもな官位は摂津守・内匠頭・従五位下。霊名はアウグスティヌス(アゴス... 通称は三郎。あだ名は尾張の虎、器用の仁。織田信長の父である。美濃の斎藤道三と激しい戦いを繰り広げた。.

①正一位 ②従一位 ④従二位 285 件中 1 - 20 件目. (adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({}); 検索ボックスにお好みのキーワードを入れて下さい。当サイト内の記事を探せます。 をクリックお願いします。, 例えば、戦国時代は皇室も公家もお財布事情が厳しかったので、多額の献金を行って位階や官職をもらう大名が多々いました。, しかし、公家が代々世襲してきたような官職や、親王がやるべき官職までは基本的にもらえていません。, 官位や極位極官の制度は、公家たちの最後の砦というか、心の拠り所というべきものだったわけです。 清洲会議での四宿老のひとり(ほか、柴田勝家、丹... 幼名は古新、照政。通称は三左衛門、岐阜侍従、吉田侍従、播磨宰相、姫路宰相。おもな官位は武蔵守・... 幼名は弥九郎。別名は如信。おもな官位は摂津守・内匠頭・従五位下。霊名はアウグスティヌス(アゴス... 通称は三郎。あだ名は尾張の虎、器用の仁。織田信長の父である。美濃の斎藤道三と激しい戦いを繰り広げた。. 尼子経久の孫にあたる。父が若くして亡く... 通称は又右衛門。別名は新左衛門。おもな官位は但馬守。柳生石舟斎で知られる柳生宗厳の息子(五男)... 幼名は徳寿丸。別名は又四郎、筑前宰相。おもな官位は中務大輔・参議・権中納言。

… 285 件中 1 - 20 件目. スポンサーリンク

㉖従八位下 (adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({}); 検索ボックスにお好みのキーワードを入れて下さい。当サイト内の記事を探せます。 (adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({}); Copyright© BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン) , 2020 All Rights Reserved. ③正二位 位階=従五位下 ⑦正四位上 大内 義隆(おおうち よしたか)は、戦国時代の武将、守護大名・戦国大名。. ㉚少初位下, ご覧の通り、最上位の正一位から最下位の少初位下まで全部で30段階。そもそもこうした位階は「貴族」のお話がメインでして、奈良時代に制定され、平安時代で頻繁に出て来るようになります。, まず頭に入れておきたいのは、官位とは「官職」と「位階」を合わせた呼び方だということです。, 「 」の中をタテ読みすると官位になりますね。略語だからわかりづらいのかもしれません。, 近現代史では「官」がつくと公務員や国が運営する機関などが連想されますが、だいたいそんなイメージで良いでしょう。もうちょっと具体的にいえば「日本の伝統的な公務員の分類」というのがわかりやすいですかね。, ◆神祇官(祭祀などを担当)……祈年祭や新嘗祭など毎月の祭り事を担当したり、全国の官社(前述の祭を行う神社)を管理する 戦国の大名・武将285名を一挙紹介。生年月日順や生涯年齢順など並び替え自由。(近く実装) 特に人気のある戦国大名・武将. ⑲正七位上 戦国~安土桃山時代の武家官位 ... 一方この時代には、朝廷からの任命を受けないまま官名を自称 (僭称)する例も増加した。織田信長が初期に名乗った上総介もその一つである 。また、官途書出、受領書出といって主君から家臣に恩賞として官職名を授けるといったものまで登場した。豊臣� 特に重要なのは「左弁官局」と「右弁官局」で、それぞれ八省のうちの四省ずつを担当していました。, ◆左弁官局管轄→中務省・式部省・治部省・民部省 ⑯正六位下 ファミレスの店長をしながら戦国武将・大名たちの日常を ご紹介している南昌幸と申します。 このブログは、あなたが知り得ない戦国武将の普段の様子や、何を食べていたのか?などをあなたに伝えるブログです! なんで知ってほしいと思ったのか? 戦国の武将195名を一挙紹介。生年月日順や生涯年齢順など並び替え自由。(近く実装) 特に人気のある戦国大名・武将. 伊予国大山祇神社(愛媛県大三島)の大宮司・大祝安用(おおほうり やすもち)の娘。瀬戸内統一を狙... 幼名は白寿。通称は源五郎、二郎太郎。おもな官位は出羽守・右京大夫・左近衛少将。あだ名は高楡小僧... 幼名は彦三郎。南部氏第24代当主。着実な勢力拡大により、出羽北部を統一。南部氏の最盛期を築いた。. 官職=治部少輔(治部省の中で2番目に偉い人) 毛利元就の三男... 通称は勝三郎、紀伊守。別名は信輝。号は勝入。 『戦国・織豊期の武家と天皇』 池享 校倉書房 2003 (gb235-h13) 「武家官位叙任表」(pp.238-243) いずれも、「歴名土代」「公卿補任」「お湯殿の上の日記」などの各種史料で手続きが確認できる武家の任官を一覧表にまとめたものです。 今回は中世や戦国武将の名前の多さについてです。「吉法師」や「梵天丸」などの幼名。「日向守」や「上総介」などの受領名。「右府」や「弾正忠」などの官途名。「信玄」や「謙信」などの法名。そして本名でなぜ呼ばないのか。諱(いみな)とは何なのか・・・。 戦国の大名・武将285名を一挙紹介。生年月日順や生涯年齢順など並び替え自由。(近く実装) 特に人気のある戦国大名・武将. 神様だって、自分のことに興味を持っている人間にはご利益を与える気になる……かもしれませんしw. ⑱従六位下 ⑨従四位上 ・皇族は別格だけど世代に影響される, 官位相当制の表もウィキペディア先生や歴史手帳などに出ていますが、受験をお考えの方はそこまで覚える必要はないでしょう。, エンタメ目線で ㉘大初位下 ⑬従五位上 ・それを飛び越えられたのは戦国時代、かつ金の力くらい 戦国の武将. 記事やイラストの無断転載は固くお断りいたします。ご要望の際は、お問い合わせよりご一報下さい。. ㉑従七位上 ㉓正八位上 ◆右弁官局管轄→兵部省・刑部省・大蔵省・宮内省, わかりやすい例で言えば石田三成の「治部少輔」でしょうか。 ↓ 幼名は徳寿丸。通称は次郎。おもな官位は常陸介。あだ名は鬼義重、坂東太郎。佐竹氏第18代当主。 ... 別名は三木自綱(みつぎよりつな)。通称は光頼、自頼。おもな官位は左京大夫・大和守・大納言(自称... 幼名は三郎四郎。通称は藤次郎。おもな官位は民部少輔。 「好きな歴史上の人物の官位が、全体的に見るとどの辺のエラさになるか?」 戦国の大名・武将. 義隆については後半生が注目されがちですが、ノリノリだった頃の権勢のほどがうかがえます。, また、戦国時代にやたらと官職名を名乗る大名がいたのは、朝廷に献金して任じてもらった場合と、勝手に自称したケースもありまして。, 前者の例は大内義隆、後者はありすぎて書ききれないほどありますが……有名どころだと、若い頃の織田信長が「上総介(かずさのすけ)」を名乗っていました。, 上総は親王任国といって、親王でなければ国主になれないとされ、他の地方とは別格の扱いを受けていたところです。 戦国の武将195名を一挙紹介。生年月日順や生涯年齢順など並び替え自由。(近く実装). ㉗大初位上 これらを完全に網羅することははっきり言って数十年も研究している学者でさえも難しいことです。, まして普通にエンターテイメントとして見ているだけの人からしたら、誰が何なのかさっぱりわからないはずです。, そこで今回は、そうした戦国武将らが持っている官位について完全網羅・・・というのは冗談で、誰がどれだけ偉いのか、誰よりも上なのかということを少しでもざっとわかることができるようにお話ししましょう。, まず、日本の官位は何が面倒くさいかというと基本的には全て訓読みなので読んでいても歯切れが悪い。, 日本の官位では、基本的に正一位、従一位というような「官位」があり、それに相当する「役職」が割り当てられます。, しかし、正一位の場合はどの殆どが既に高位高官を得て死んだ者が死後に追贈されて就くので、生前に就任可能なものは事実上その次の従一位だと考えていいでしょう。, という調子で従八位下まで続き、大初位上、大初位下、少初位上、少初位下となり、以上で位階が終わります。, ○○守、いわゆる地方の領主になるのは従五位下(じゅごいのげ)、下級の国司だと正六位上(しょうろくいのげ)からスタートします。, これは古代中国から続く官職制度の流れを大宝律令の時に真似て、それがそのまま明治維新になるまで基本方針として継続していった結果でもあります。, 但し、日本特有の役職名もあり左馬助(さまのすけ)などは中国では見られない名前です。, ちなみに、こうした役職名にはだいたいの場合唐名(からな)という中国での呼び方を通称で呼びます。, 関ヶ原の戦いで家康はベストタイミングで寝返りをやらかした小早川秀秋に対して「金吾よ、でかしたぞ!」と言ったと伝わります、この金吾とは中国の「執金吾(しつきんご)」という官職に由来します。, 当時の小早川秀秋は左衛門督(さえもんのとく)という役職に就いており、元の名前が秀俊だったことから金吾秀俊という通称がありました。, どちらも皇室の警備に連なる役職で、日本では衛門府(えもんふ)と呼ばれる役職の中の一つでした。, 日本でもその傾向は強いようで、例えば家族以外の者が「おい、真田信繁」などと呼ぼうものなら斬られても文句は言えません。, 例えば明智光秀なら「明智日向守(あけちひゅうがのかみ)」、その娘婿である明智秀満なら「明智左馬助(あけちさまのすけ)」など、少々長かろうとも役職で呼ぶことで誰なのかをはっきりさせるという意味もあったようです。, 安房とは千葉県の一部の地域の事なので、現代で言うと、真田市長といった感じでしょうか?, そういう場合は由来のある地名を冠することが多く、例えば豊臣秀頼の母・茶々は淀城に住んでいたことがあるから淀殿という風に呼んでいました。, 最後に、朝廷内では現在名乗っている姓名の他に源・平・橘・藤原のように天皇家に連なる姓などを名乗って官位表に載せられます。, そして真田信繁は秀吉から朝廷用に豊臣姓を頂いていたので豊臣信繁と名が載っています。, 真田、伊達、毛利といった姓はその昔あまりにも藤原、源、平が増えすぎために「お前らややこしいから今後は自分の土地の名前を名乗りなさい!」と朝廷が命令したことが始まりみたいです。, だいぶ当初の話とはずれましたが、お次は『真田丸』から真田親子の官位・役職に就いて見ていきましょう。, それから時期は不明ですが少なくとも秀吉が生きている頃に従四位下・侍従に昇進し、伊豆守を兼任します。, そして父・昌幸は時期はよくわかりませんがおそらく秀吉時代、従五位下・安房守(あわのかみ)に任じられています。, パッと見では昌幸が信幸よりも格下じゃないかとの感想を抱きますが、それよりも昌幸・信幸が『守』、つまり領主であるとされているのに対し、信繁は中央官ではありますがこれでは領地がありません。, (ここでいう領地がある、ないというのはあくまでも官位表、つまり理念上の話だと思ってください。実際は明智光秀みたいに日向守でも日向(宮崎県)に行ったことがない人がいるように名前だけの場合がなんとも多いです)。, 同じ時期に官位を授かった家康の次男・結城秀康は三河守(みかわのかみ)と同時に様々な役職にも就いています。, つまり、信幸は家康の息子と似たような待遇である義理の婿、同じ従五位下でも守の役職がない信繁とはまるで重みが違うのです。, ある学者はこうした対比から信繁は領地をもらってない分、昌幸の後継者としての地位を確立したのでは?との意見を主張していますが、要するに信幸が昌幸の手を離れて別家として成り立っていたということを考える必要があるということではないでしょうか?, なんだかんだ言って、関ヶ原の戦いは日本全国の大名が総動員で活躍した随一の戦乱です。, 先述した通り従一位が事実上のナンバー1である以上、正二位というのは事実上ナンバー2です。, 当時の従一位は柳原淳光という公家の人物、秀頼は家康の後任の内大臣、つまりこの時点では確実に格下です。, 次に西軍の大将は毛利輝元ですが、先述の通り従三位・権中納言であるため、官位としては武家ナンバー2です(豊臣家は関白など、公家路線に走っていたためここでは考えない)。, これら大大名を決起に導くきっかけとなった石田三成ですが、彼の官位・役職は従五位下・治部少輔(じぶしょうほ)に過ぎません。, 真田信繁と同じく名目上は領地無し、秀吉からもらった近江佐和山はちょっと言い過ぎかもしれませんがある意味では秀吉個人の裁量で与えた領地、名目としては朝廷から頂いた土地ではないので感覚としては秀吉からの小遣いだとイメージしましょう(あくまでもイメージです)。, だいたい従五位下くらいが一般的に大名と呼ばれるクラスの人がもらっている官位なので、大谷吉継の研部少輔(ぎょうぶしょうゆう)、石田三成の治部少輔(じぶしょうゆう)、加藤清正の主計頭(かずえのかみ)、真田信繁の左衛門佐(さえもんのすけ)といった従五位下やその下くらいの役職の人は関ヶ原の戦いに参加していた人の中にゴロゴロいます。, しかし、西軍に付いて反乱を起こしたのが自分に次ぐ上杉景勝や毛利輝元、宇喜多秀家となれば話は別です。, 前田利長も最初は父の遺志を継いで反家康でしたから、家康にとっては五大老は全員敵だったのです。, あるいはそれらと縁故の大名が束になって寝返れば何が起こるか分かったものではありません。, 一方、三成は自分単独では諸大名を動かせるほどの力はないとわかっていたようで家康以外の五大老の力を利用しようとしたのはとても賢い選択でした。, そうした政治的側面を巧みに利用した三成は決してただの陰湿な頭でっかちではなく、相当に頭の切れる人でしょう。, 毛利の内通などが一切なく全てが三成の思うがままに動いていたら関ヶ原でも西軍が勝っていた可能性は十分にありましたが、家康と三成では発言の重さが違いすぎました。, 国一つ動かすとなると、どうしても運や局地的な戦術だけではどうにもならないというのがよくわかるのが関ヶ原の戦いです。, 家康は江戸幕府を開く際に秀頼の再起を阻止するために関白の位を朝廷に返上し、征夷大将軍を唯一無二の最高職に祭り上げてしまいました。, それは、こうした国の仕組みが世の中を学ぶ上でとても重要な意味を持っているからです。, ドラマでは何だか呪文のような官位ですが、名刺と同じで上下関係をはっきりさせ人物の立ち位置を認識するにはこの上ない材料なのです。.