マックロード(MACLORD)は、松下電器産業(現:パナソニック)がNational(ナショナル)ブランド(のちPanasonic(パナソニック)ブランド)より発売していたVHSビデオデッキのブランドである。, 松下電器産業(現:パナソニック)は、1977年6月にVHS方式のビデオデッキを初めて発売した。「マックロード」とは、その時に命名されたブランドである。安価な価格など当時としては画期的な点が多数あり、大ヒットした。世界で初めて3倍モードを搭載したり、独自のバーコードとスキャナを使った録画予約システムや番組表に付いているGコードで予約できる機能もあった。同時期に発売された同社のビデオカメラには「マックロードムービー」の名が付いていた。, 「マックロード」の商品は、パナソニックブランド誕生の1989年まで発売が続けられた。以降は前面には押し出されなくなったものの、近年まではカタログにのみ表記が残った。パナソニックブランド誕生後に発売された「れんたろう」(NV-F500)まで「マックロード」、「Sマックロード」、「マックロードムービー」の名が残っていたが、1990年以降に廃止された。カタログの表紙のマックロード表記は1992年以降に完全に廃止。, VHS規格のビデオデッキは、その後DVDレコーダーやBDレコーダーなどのデジタル機器に押され、パナソニック製の新機種は2005年に発売されたNV-HV72G・HV62が最後(S-VHS方式は2003年発売のNV-SV150Bが最後)で、これも2007年2月をもって製造が終了し、パナソニックのVHSビデオデッキは単体機としては30年の歴史に幕を下ろした。, 現在[いつ? すべての機能を利用するにはJavaScriptの設定を有効にしてください。JavaScriptの設定を変更する方法はこちら。, 現在位置:

nv-sb800w パナソニックの高級機です。 希望があれば映像・音声ケーブルもお付けします。 更新10月26日 作成10月25日 2 お気に入り 2 登録済み お気に入りに登録しました お気に入り一覧. VHSビデオデッキからパソコンにデータを保存し、そこからDVDなどに焼く方法もあります。 ダビング(データ化)した後の編集もやりやすいので、きちんとした形で映像を残したい方にはおすすめです。 用意するもの. ]は、DVDレコーダー/BDレコーダーのDIGAに内蔵されたもののみとなっているが、2006年秋以降に発売された機種(DMR-XP20V/XP21V/XP22V/XP25V/XW40V/XW41V/XW200V/BR630V/BR670V)はVHSへの直接録画が不可能(逆に直接再生は可能)となっており、テレビ放送や他の映像機器からVHSビデオテープに録画したい場合は、いったん内蔵されたHDDに記録しなければならず、あくまで過去の映像を保存するための手段として割り切った機能となっている。, VHS規格のビデオデッキは民生用・業務用ともに一定のニーズがあり、VHS規格に対応した製品はDVDレコーダーとの一体型も含め東芝や日本ビクターなどによって細々と製造・販売が続けられていたが、2012年2月10日にはパナソニックが「VHSビデオデッキの日本国内向け生産を2011年限りで完全終了した」旨を公式発表[1]。これにより1977年より続けてきたビデオデッキ生産(国内向け)は35年の歴史に幕を閉じた(最終モデルはVHS一体型ディーガ「DMR-XP25V」と「DMR-BR670V」)。, 1977年、第1号機のNV-8800には俳優の森繁久彌を起用。翌年、倍速、静止、コマ送り機能を追加した「NV-6600」にはザ・ドリフターズの一部のメンバーが出演し、中でも仲本工事の「コ・マ・オ・ク・リ・モ・デ・キ・マ・ス・ヨ」「再生時間はロ・ク・ジ・カ・ン」が有名。その他、中村雅俊出演の「中村さん家のマックロード」シリーズ、イノシシの子供の「ウリ坊」出演のCMなどがある。ナショナルブランド末期からパナソニックブランド初期には、ジョージ・ルーカスやウッチャンナンチャン、坂上二郎が出演していた。, 以上、これらのCMは視聴率の高いTBSの月曜夜8時枠の「ナショナル劇場」(後の「パナソニック ドラマシアター」。『水戸黄門』『江戸を斬る』シリーズの時代劇で有名)でも放映されていたため、一般的な認知度も非常に高かった。, かつては事業部や販売ルートの違いから、市販機と全く同一仕様で品番だけが異なる業務用モデルがあった(品番は市販機→ビデオ事業部がNV-に対し、業務用機全般→ビデオシステム事業部はAG-)。主に教育市場・公共施設・企業の研修施設などが対象であった。同様のケースは日本ビクターにも見られたが、こちらは識別のためボディカラーを変えている。, http://www.nikkei.com/article/DGXNASDD100BX_Q2A210C1TJ2000/, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=マックロード&oldid=76964028, この項目では、パナソニックのビデオデッキ及びビデオカメラについて説明しています。旧. SONY VHSビデオデッキ SLV-NX1 9. 2012年2月10日、パナソニックが「vhsデッキの日本国内向け生産を2011年限りで完全終了した」旨を公式発表した 。 2016年4月時点で新品として流通していたvhsデッキ(録画再生機・再生専用機)は以下の通りで、全機種がフナイのoem。 > 家電、AV、カメラ VHSビデオが大量にあります。VHSビデオデッキもまだかろうじて動くようにおもいます。さて、テレビの買い替えを検討しているんですが、最近のテレビには黄色、赤、白のケーブルを差し込む端子がないものが多いのでしょうか。その場合、AV to HDMI 変換 コンバーターのようなものを介す …

SONY VHSビデオデッキ SLV-NX1 9. この商品を買った人はこんな商品も買っています ref-tags-container-link 検索結果 215 のうち 1-24件 家電&カメラ: テレビ・レコーダー: ビデオデッキ: VHSビデオデッキ. (中古品)sony vhs ビデオデッキ slv-ft11【メーカー名】sony【メーカー型番】slv-ft11【ブランド名】ソニー(sony)【商品説明】sony vhs ビデオデッキ slv-ft11ソニーvhsビデオデッキお届け:到着まで3日〜10日程度とお考え下さい。当店では初期不良に限り、商品到着から7日間は返品を受付けております。お … ]では、当時日本ビクターには松下電器から平田雅彦氏(後の松下電器副社長)が出向しており、VHS開発終了の情報が松下電器へもたらされ、ビデオ開発の中心にいた高橋氏がビクターを訪問しVHS試作機を見学、続いて松下幸之助氏が訪問、『プロジェクトX〜挑戦者たち〜』が伝えるところでは、VHS1号機の発売前にすでに松下電器はVHS採用を決めていたとしている。, のちに「VHSの父」と呼ばれる高野鎭雄が松下幸之助に直訴。1976年(昭和51年)末、松下電器本社で松下幸之助および松下・ソニー・ビクター各社社員らが出席し、両社のビデオデッキを見比べる会議(直接対決)が開かれた。その席で幸之助は「ベータは100点(満点)、しかしVHSは150点。部品点数が少ないので(VHSは)安く造ることができ、後発組に有利」と見解を示した。通商産業省が規格分裂に対し難色を示していたこともあり、新規格での規格統一も提案したが両社とも自社規格を引っ込める気がないために幻となり、松下はVHS方式への参加を決めた。幸之助がVHSを選んだ決め手になったのは前述に挙げた理由の他に、VHSデッキのほうが軽かったこともあった。「ベータだと販売店の配送を待たなければならないが、VHSはギリギリ持ち帰れる重さで、購入者が自分で自宅に持ち帰りすぐ見られる」といった幸之助らしい基準だった[4][5]。, 1976年(昭和51年)10月31日、日本ビクターがVHS第1号ビデオデッキ(品番:HR-3300)を発売、当時の金額で定価25万6000円。留守番録画のできる時計内蔵の専用取付式タイマーは別売1万円で、VHSの録画テープも当初は120分が6000円となっていた。また、シャープ、三菱電機も当初は日本ビクターの第1号機をOEMで発売していた。翌1977年(昭和52年)にビクターが現在のロゴの使用を開始したため、VHSの1号機であるHR-3300の最前期に生産されたロットは戦前から使ってきた(書体は微妙に違う)旧ロゴ(「VICTOR」ロゴ)をつけた唯一のデッキとなった。なお後期生産分は現ロゴとなっていた。, 1977年(昭和52年)には松下電器産業が普及型のVHSビデオデッキ「ナショナルマックロード」を発売し、VHSヒットのきっかけにもなった。, 長時間録画のユーザーのニーズにも応えるため、1977年(昭和52年)に米国市場向けの2倍モード(LP)が、日本国内向け機器にも1979年(昭和54年)に3倍モード(EP)が開発され、幅広い機種に搭載された。また規格外ではあるが標準モードで2つの番組を同時に録画できる機種も存在しており、VTR普及期にはメーカーから様々な提案がなされた。その後は5倍モードも開発され一部の機種に搭載された。, 1972年(昭和47年)に松下電器のビデオ事業部長になった谷井昭雄(元社長)によると、VHS普及の最大の山場は1977年2月のRCAとの提携だった。条件が付いて8月の出荷までに録音時間を2倍の4時間にすることも求められ、村瀬通三(元松下電器副社長)などの技術陣が達成した[6]。松下電器ではOEM供給していたアメリカのRCAより、アメリカンフットボールの録画のためさらに長い録画時間が必要という要望があり、2倍(LP)モードをつけたVHSデッキを開発。OEM供給したが日本ビクターの了承を得ないものだった。VHS標準(SP)モードより画質・音質が低下し、さらにVHS規格の互換性からも外れる事から日本ビクターは松下電器の勝手なふるまいに怒り、2倍(LP)モード録画対応機種を絶対に日本国内で発売しないよう松下電器へ強く要請していた。日本国内のVHS陣営各社も、標準(SP)モードの2時間もあれば十分で、4時間録画の2倍(LP)モード採用には、日本国内にはアメリカンフットボールのような長時間録画需要が当時は無かったため否定的で、VHS規格の互換性からも外れているために採用する動きは無かった[7]。, 当初、VHSの音声トラックはテープの隅に固定ヘッドでモノラル録音するものだったが、その幅はコンパクトカセットより狭く、テープスピードは3/4だった。3倍モードではテープスピードが標準モードの1/3になり、S/N比の劣化(ヒスノイズの増加)および周波数特性の劣化が顕著となる。なおワウフラッターはビデオではテープ走行は同期の乱れとなるために厳格に管理されていた。上位機種では音声トラックをステレオ化していたこともあり、各メーカーでは少しでも高音質化すべくドルビーノイズリダクションシステム(ドルビーB)、dbxなどの音声信号の圧縮伸張処理技術を採用していたが、S/N比の劣化に対しては若干の改善が見られたものの周波数特性には対応できなかった。その時代のノーマル固定ヘッドでステレオ再生可能なデッキを現在、持っていないと、ノーマル音声でステレオ録音されたVHSテープをステレオで聴くことは当然だが不可能である。さらに問題なのがノーマル音声トラックに2ヶ国語の洋画を録画した場合であり、日本語と外国語が同時に再生される。当然のことながらスピーカーの左右バランスを調整しても解決はしない。, 1983年(昭和58年)1983年3月、谷井昭雄と高野鎮雄、RCAのジャック・ソーター副社長の3人の写真が、当時の世界最大の国際週刊誌『タイム』の表紙を飾った。, 同1983年4月、ソニーがステレオHi-Fi音声記録方式(ベータHi-Fi)を採用した「SL-HF77」を家庭用1/2インチビデオとしては世界で初めて発売した。ベータHi-Fiは従来ベータ機と輝度信号が4.4MHzから4.8MHzへ高域へのキャリアシフトも伴っており厳密な意味で互換性が失われたが、ベータHi-Fi録画されたテープを従来ベータ機で再生してもほとんど問題にならなかった。, ベータ陣営のHi-Fi化に対抗し、同1983年5月には松下電器が音声専用ヘッドを搭載し、磁性体への深層帯記録を使用し、ノーマルVHSと互換性のあるHi-Fiステレオオーディオ機能を追加した「NV-800」を発売。この機能はVHS Hi-Fiステレオ標準規格として採用された。松下の独自規格によるVHS Hi-Fi機「NV-800」はHi-Fi音声トラックの信号処理にdbxを使っていた。「NV-800」が採用したHi-Fi音声の磁性体への深層帯記録を用いたHi-Fi方式をVHS規格化するにあたりdbx、ドルビー社のライセンス料回避のため、両社の特許に抵触しない信号処理技術が開発され採用された。そのため「NV-800」で録画されたビデオカセットを、ビクター「HR-D725」以降発売された正式なVHS Hi-Fi規格ビデオデッキで再生すると、厳密には正式なVHS Hi-Fi規格との互換性が無いため、音声が多少歪む可能性がある。, 同1983年秋には、ビクターから初めて正式なVHS Hi-Fi規格に対応した「HR-D725」が発売されている。このD725などの機種は前述のノーマル音声方式での録画・再生も可能でドルビーBにも対応していた。ダイナミックレンジは当初80dB以上、1986年(昭和61年)以降の機種では90dB以上に向上した。周波数特性は20 - 20,000 Hz[注釈 2]。, これにともない、ノンHi-Fiのステレオ機器は1980年代には生産終了した。国内メーカーによるノンHi-FiのモノラルVCRは単体機は1990年代後半に生産を終了[要出典]。テレビデオはしばらくノンHi-Fi機の生産が続いたが、2000年代初頭には終了した。, 1992年(平成4年)に高野鎮雄が68歳で死去したとき、VHSビデオデッキの普及台数は3.7億台であった。, 2008年(平成20年)、日本ビクターの初代VHSデッキ「HR-3300」が、国立科学博物館の定めた重要科学技術史資料(通称:未来技術遺産)の第0020号に登録された。, 2016年(平成28年)、船井電機(日本国内では当時「DX BROADTEC」ブランドとして展開)が7月末日をもってVHSビデオテープレコーダーの生産を終了[8][9]。VHSビデオテープに関しては複数メーカーが引き続き生産・販売している。主な理由として、一般家庭での編集や再生、小売量販店などの防犯カメラに使われているケースが多く、そのような顧客のニーズに応えるためである。, VHSは、1975年(昭和50年)にソニーが開発・発売した家庭用ビデオベータマックスの対抗規格として脚光を浴びた。約10年間も続いた規格争い(ビデオ戦争)を制してVHSが生き残った。その要因としてはいくつかある。, VHS陣営はファミリー形成を重視した展開を行った[10]。これが功を奏し、VHSを採用するメーカーを多数獲得して、共同で規格の充実を図る体制を確立した。また、家電メーカーを獲得したことによりその販売網を利用できた。特に松下電器産業をグループに引き込んだことが大きい。ベータマックス陣営には家電販売網を持つ東芝などの存在もあったが、松下の販売網の規模と緻密さは大きく影響したと言われている。, その他、VHSは量産に適した構造で、普及期に廉価機の投入など戦略的な商品ラインナップを実現できた[10]。ベータはUマチックと同じUローディング方式をそのまま用いたのに対し、VHSは開発が難航したものの部品点数が少なく生産もしやすいMローディングを採用した。記録時間を最初から実用的な2時間に設定しその後も長時間化に成功したこと、欧州・米国市場でのOEM供給先を獲得することに成功したこと[10]、などが要因として挙げられる。, ベータ規格主幹のソニーによる広告戦略の失敗もあった。1984年(昭和59年)1月25日から4日間、ソニーが主要新聞各紙に広告を連続で掲載し、見出しは「ベータマックスはなくなるの?」「ベータマックスを買うと損するの?」「ベータマックスはこれからどうなるの?」となっており、最終日に「ますます面白くなるベータマックス!」と締めくくる展開であった[10]。これは当時の新製品を告知する逆説的アプローチだったのだが、消費者には理解されず『ベータ終了』と短絡的に捕らえ、これを機にベータ離れが加速された[10]。, VHSは高画質化よりも長期耐久性や再生互換性を最重要視する設計の規格で、レンタルビデオ市場やセルビデオ市場を創造した。また関連会社の資金提供で映画やAV作品などのタイトルを豊富に作らせ、セルビデオソフト店が無かった黎明期は大手電器販売店の近所に作ったアンテナショップで販売した。, ビデオソフトのシェアは、1980年にVHSがベータを上回った。1989年(平成元年)頃まではメーカーはVHSとベータを併売していた(一部メーカーは8mmビデオソフトも供給)が、ベータファミリーが崩壊し各社がVHSへと移行した。ソニーも1988年(昭和63年)にVHS/Beta/8mmビデオデッキを併売するようになり、ベータは市場シェアを徐々に落としたことから、ビデオソフトメーカーはビデオソフトをVHSのみで発売するようになり、レンタルビデオ店でもVHSが標準となった。家電量販店などでもビデオデッキはVHSやS-VHSが主流となった。より高画質を求めたベータユーザーはベータソフト供給打ち切り前後を境にレーザーディスク(LD)へと流れて行った。, セルビデオやレンタルビデオのソフトの再生互換性を鑑みて、各社独自仕様のVHSビデオデッキの発売は基本的には許されなかったが、1996年にシャープがダブルチューナを搭載し同時二番組録画・再生対応した「VC-BF80」を発売した。同時二番組録画・再生はVHS方式には規格されておらずVHS方式とは互換性が無く、当該機種で録画されたテープはシャープ製を含め他社VHS機種での再生も当然不可能であった。S-VHS搭載機でも、VHSの録画・再生は可能である。, ベータでは、βI・βIs(5.6 MHz Hi-Band)・βIsSHB(6.0 MHz Hi-Band)・βII(X2)・βIII各モード、Hi-BandBeta(5.6 MHz/βII・βIII)、BetaHi-Fi、ED-Betaなどの規格があったが、VHSでもSP(標準)・LP(2倍/日本国内仕様では再生のみ対応)・EP(3倍)・5倍各モード、VHS-C、VHSHi-Fi、S-VHS、S-VHS-C、S-VHS-ET、S-VHSDigitalAudio、W-VHS、D-VHSが乱立しており、VHS・ベータともに最初期の標準モード・βIモード専用機種等では、後に開発された長時間モードや高画質・高音質規格で録画されたテープが再生できない環境にあった。, ベータのビデオソフトではハイグレードテープを使用して、磁気保持力が強い総メタルテープのマスターをスレーブのテープに超高速磁気転写プリントする方式をソニーが1980年代に開発したが、VHSでは高速磁気転写プリント方式の技術開発そのものが遅れたため、等速でのソフトウェア生産作業を余儀なくされることとなり、結果としてLDやVHD等のビデオディスクよりも高価なビデオソフト価格であった。1990年代に入り、OTARIがTMD高速熱転写方式による「T-710ビデオ・デュプリケーター」を開発し、VHS・SP(標準)モードで300倍速の高速プリントを実現しソフト製造の高速化が図られ、VHSビデオソフトの低価格化に貢献した[11]。, VHS対ベータ戦争の火ぶたが切られたとき、ビクターはVHSファミリーの中で技術的問題や生産能力でまだVHSデッキを製造できないメーカーにOEM供給していた。ときには自社ブランドよりOEM供給向けの生産を優先していたこともあるという。それは様々なメーカーで販売することにより他社の販売網を活用できる上、VHSが多数派であるという印象を持たせる狙いもあったと言われる。なお、ソニーもベータファミリー各社の生産体制が整わないうちには自社製品をOEM供給していた。, VHS対ベータ戦争では負けたといわれるソニーだが、VHSで使われる技術にもソニーの保有する特許が多数使われているため、少なからぬライセンス収入があった。これは1969年(昭和44年)のU規格策定時にソニー/日本ビクター/松下電器の3社が結んだクロスライセンス契約が関係している。, ソニーはテープローディング技術を始めとする非常に多数のVTR特許技術を保有していたため、ソニーとクロスライセンスを契約を結んでいなかった日立製作所、三菱電機、シャープ、赤井電機などのVHS陣営各社がVHSビデオデッキを発売した際、ソニーと特許利用契約を結ぶ必要があった[12]。また、磁性材料から含め約28,000件にも達するビデオカセットテープに関する特許技術もソニーがほぼ掌握しており、ソニーとクロスライセンス契約を結んだ松下電器、日本ビクターはVHS方式発売当初、自社によるビデオカセットテープ生産設備を保有をしていなかったため、TDK・富士フイルム・住友スリーエムなどからのOEM供給で凌いでいた。ソニーと特許利用契約を結んだ日立製作所は日立マクセルのOEM供給によりVHSビデオカセットテープを発売。1978年(昭和53年)にソニーがクロスライセンス契約を結んでいないテープメーカーに対しても有償で特許を公開する方針としたため、テープメーカーが独自でVHSおよびBetaビデオカセットテープの発売が可能となった[13]。, ビデオ戦争の末期には、ソニー製のVHSビデオデッキを望む声が市場から上がっていた。このことがソニーがVHS方式に参入する一つのきっかけとなっており、VHS・ベータ・8ミリのフルラインナップで「VTRの総合メーカー」を目指す方針に転換した。1988年(昭和63年)にソニーがVHS方式へ参入した際、障壁となるものは全くなかった。松下電器・日本ビクターとはクロスライセンス契約を結んでいたため、VHS参入時、松下電器・日本ビクターへVHS発売の了解を得る必要性すらなかった。前述の通りVHSはソニーの自社特許技術が多数採用された方式であったからである。また、当時ソニーの子会社だったアイワ(初代法人)は親会社に先行してVHSに参入していた。, 21世紀に入るとDVDやハードディスクレコーダ、パソコンの普及、高精細テレビ放送やBlu-ray Discの登場、多くの国でのデジタルテレビ放送の開始といった「デジタル時代」「ハイビジョン時代」の中で、それに対応できないVHSカセットやVHS単体機は次第に売れなくなっていった[注釈 3]。デジタルレコーダーとの複合機も、過去のライブラリーをデジタル化することに重点が移り、テレビ番組の録画ができないタイプのものが増えた。, また、テープであることから、音、画質共に悪く、頭出しや巻き戻しが面倒であるなどの理由からディスクの方が良いと認識され、2008年頃から、VHSの需要が低下してきた。画質面は、1987年にS-VHS(高画質版VHS)、1999年にはD-VHS(デジタル録画対応VHS)が発売されるもデッキが高価であり、D-VHSに至っては、これまで蓄えてきたVHSの資産を無駄にせず、今後のデジタルに対応した製品だったが、同年にパイオニアがDVDレコーダーを発表したことによりD-VHSはそれほど、普及しなかった。, ビデオ判定にも用いられたこともあったが、水平解像度が240本とアナログテレビ放送の330本より低いことから、正確な判定ができないケースも見受けられた。2012年5月19日に横浜スタジアムで開催された横浜DeNAベイスターズ対千葉ロッテマリーンズでは、アレックス・ラミレスの本塁打性の飛球の判定に家庭用VHSデッキが使用され、映像では本塁打であることが分からなかったためにファウルと判定されたケースがあった[14]。, こうした状況も重なり、日本ビクターは2007年(平成19年)5月30日、経営不振による事業再建策として、VHSビデオ事業からの撤退・清算を発表した[15]。2008年(平成20年)1月15日にS-VHS単体機を全機種生産終了したと発表し[16]、同年10月27日にはVHS方式単体機の生産を終了した。, ビクターの撤退により、日本国内メーカーのVHSビデオ単体機の製造は船井電機(以下、フナイ)のみとなったが、やがてフナイも完全撤退した[8]。以降はDVD、HDDなどの複合機として展開されていたが、大幅に縮小された[17]。, 各社はテレビの完全デジタル化を睨み、販売の主力をHDD併用のブルーレイレコーダーに移しており、商品ラインナップは縮小の一途をたどった。これにあわせ録画用ビデオテープから撤退する事業者も相次いでおり、有力メーカーとしては製造を続けているS-VHS用テープは既に販売終了となっており、2014年12月末で日立マクセル(現・マクセル)も生産終了。2015年2月にはTDK(←イメーションのTDK Life on Recordブランド)も生産終了となり、2015年6月には録画用テープの在庫切れが目立ってきた。, 2010年代に入っても、VHS一体型のDVDレコーダーないしBDレコーダーが製造されていたが、各社とも2011年末までに生産完了となった。2011年末までVHS一体型のDVDレコーダーを発売していたのは、フナイと当時の子会社DXアンテナ以外ではパナソニックのDIGA「DMR-XP25V」(パナソニック自社生産)と東芝「D-VDR9K」(フナイのOEM)であった。2012年2月10日、パナソニックが「VHSデッキの日本国内向け生産を2011年限りで完全終了した」旨を公式発表した[18]。, 2016年4月時点で新品として流通していたVHSデッキ(録画再生機・再生専用機)は以下の通りで、全機種がフナイのOEM。一定のニーズがあり価格競争も起こらないので販売を続ければ利益も出る状況にはあったが、同年7月末には部品の調達が困難となったために生産継続を断念せざるを得なくなり、全機種が生産終了に至っている[19][8][9]。, VHSが普及するにつれ量産効果が上がり、テープ価格が大幅に値段を下げた。オープンリールを多用していたコンピュータ業界はテープの安さからデータカートリッジとしての利用を推し進めた。富士通などは大型コンピュータの補助記憶装置として用い、数百本のVHSテープを筐体内ラックに納め、コンピューター制御によりジュークボックスさながらのオートローディングを行わせ大型磁気ディスク装置のバックアップ装置として活用した。この際使用したテープは市販のビデオ用テープと同じ規格の物を使用した。, 『PCMプロセッサー』(ソニーSONY PCM-501ESなど)を使いCD等のデジタル音声をコンポジットビデオ信号に変換し画像として記録する事もできた。記録時間は通常のVHSの長さと同じで三倍モードにも対応している。, 1991年(平成3年)、米ALESIS社がS-VHSテープに8トラックのデジタル録音を可能にしたMTR、ADAT(ALESIS DIGITAL AUDIO TAPE)を発売。機器ばかりでなくメディアも安価、かつ、16台までの同期動作も可能ということで、中小のスタジオやホームスタジオで急速に広まった。いくつかのメーカーから互換機も発売されるなど、この規格は一定の普及を見、adat(エーダット)として、Hi8テープに同様の録音ができるティアック社のDTRS規格とともに、ユーザーの根強い支持を得ている。, 初期の機種ではデジタルがゆえに事前にフォーマット作業が必要だった(後に録音と同時フォーマットが可能になる)。120分の録画テープに対し、約41分の録音が可能。デジタル記録はヘッドとの物理的接触などによる損耗に弱いため、ベース・フィルムを強化したADATロゴ入りの推奨S-VHSテープも存在する。当初のTypeIフォーマットでは、サンプリングレートは44.1kHzや48kHz、サンプリングビット16bitsであったが、後のTypeIIフォーマットで24bitsにも対応した。さらに、1チャンネルにつき通常の2トラック分を使って96kHzの記録・伝送を実現するS/MUXという規格もある。